●その人のことを全く知らなくても、その絵を観てちょっといい感じだなあと思う絵を描いた人と話すと、申し合わせたわけでもないのに、ジョットとかティツィアーノとかマティスとかいう話になる。ジョット(1267-1337)とティツィアーノ(1488-1567)とマティス(1869-1954)とでは、生きた時代も違えば作品の形式や技法も異なるのだけど、そこには共通する「絵画としての良さ」という感覚があり、そのような「良さ」を貴重なものだと思っているからこそ、自分も絵を描いているのだ、という感じがある。これらの固有名や歴史性は「お勉強」の成果として(あるいは教養として)あるのではなく、もっと感覚的に惹き付けられるものの厚みとしてある。(それらを良いと思い、それらに惹き付けられるのは「私の感覚」だが、それらの「良さ」は「私」よりずっと以前からあり、「私」よりもずっと偉大な先人たちによる探求の連なりがあり、「私」がそれを勝手に変更することは出来ない。)つまり、ジョットやティツィアーノが「良い絵」であるのと同じような意味での「良い絵」を描くことを目指して、自分も今、絵を描いている。勿論それは、ジョットの技法を研究して、ジョットそっくりの絵を描くということとは、全く異なるのだが。(古典的な形式や規範を「守ろう」とすることは、大概、閉塞して腐ったものを生み出す結果となってしまう。古典的な作品が生産された時の様々な条件と、現在において作品が生産される条件は異なるのだから、その生産の過程や、出来上がったものの形式は当然異なるものになる。)そしてここで言う「絵画としての良さ」というのは、たんに「絵画」というジャンルの固有性やその歴史によって規定されたものではなく、普通に人が生きていて感じるもの、その感覚や感情と(もっと言えば、普遍的な「良い」という感覚と)自然な繋がりがあり、そこへと広がってゆくはずなのだ。だからそれは、一部の専門家やディープな愛好家ではなくても、一定の関心を持ち、一定の知性と感性を備えた人にならば誰でも開かれていると信じている。
しかし実際は、現代美術(と言うか、美術の現在)は、そういうものではなくなってしまっている。それは誰がみたって枝葉末節の袋小路に入り込んでしまっているし、あるいはそれを一気に解消しようとして、安易にポピュリズムや市場の方へと傾倒してしまっている。このような事実は多くの人が気づいているし、この点を指摘して、批判するのは実にたやすいが、では、どうすれば良いのか、ということは誰も分かっていない。もはや、状況としては「美術」も「絵画」も死んでしまっているのかも知れない。美術も絵画も死んでしまった後で、ただ、個々の「ちょっといい感じの作品」があり、孤立した(マイナーな)「ちょっと面白い作家」がいるだけなのかも知れないのだ。しかし、それぞれがバラバラで、孤立しているように見える「ちょっといい感じの作品」や「ちょっと面白い作家」たちは、それぞれに異なるやり方で「過去」と繋がっているはずだし、それぞれのやり方で「現在」とも繋がっているはずだと思う。ここには、俯瞰的な視点から一望できるような「広がり」はないのだけど、手探りで探ってゆけば思わぬところへ連れて行かれるというような意味での「繋がり」はあるのだと信じたい。