『三月の5日間』岡田利規

●ぼくは基本的に演劇を観ないのだけど、それでもインターネットをやっていると目につくチェルフィッチュ(http://chelfitsch.net/)という存在は気になっていて、特に「この記事http://d.hatena.ne.jp/matterhorn/20050322」をみた時などは無理してでも横浜まで観に出かけようと思ったのだが、チケットは完売ということであきらめたのだった。で、発売された岡田利規の戯曲集『三月の5日間』を読んだのだが、これがすごく面白かった。ほとんど演劇を知らないし、チェルフィッシュの舞台も観ていないので、この本に収録されている戯曲が、具体的にどのように上演されるのかは想像出来ない(例えば一人の俳優が長々とセリフを喋っている時、舞台の上の他の俳優はどのような動きをしているのか、とか、複数の俳優に受け渡されつつ何度も反復される言葉やシーンと、それを語り演じる俳優の動きや仕種とは、どのように絡んでいるのか、とか、舞台の上での具体的な「時間」の進みかたはどうなのか、とか)のだけど、小説を読むように、たんにテキストとして読んでも、充分過ぎるくらい面白い。
マリファナの害について」「三月の5日間」「労苦の終わり」という3編が収録されているのだが、テキストとして読んで一番面白いのは「三月の5日間」だろう。一人芝居として書かれている「マリファナの害について」は、ほとんどそのままで高度に技巧的な短編小説として読めるけど、「労苦の終わり」は、執拗に反復される細部が、「テキストとしてだけ」読むとやや冗長に感じられてしまうが、しかしその分、演劇作品として上演されたものを是非観てみたいという欲望をそそられる。
とりあえずこの3編を小説のようにテキストとしてのみ読むとすれば、これらの全ての作品の中心には恋愛という出来事があると言えるだろう。だが、ここで主に関心がもたれているのは、恋愛に向かって急進的に作用する欲望や情念ではなくて、そのような欲望に、その対象となり宛先となる具体的な他者が発見され、「現実」のなかに「落とし込まれ」、現実的に恋愛という関係が「行われる」時に浮上してくる、きわめて散文的、具体的で不純な様々な事柄であり、あるいは、その恋愛という関係が成立している(それを成立させる)具体的な場所や状況であり、それら、様々な散文的な事柄や状況と、そこで恋愛を行う人物の心の動きや関係のあり方との密接な(不可分な)絡み合いであるように思える。描かれるのは恋愛や欲望の本質や核ではなく、それらが、偶発的なものでしかない現実のなかに着地し場所を得る時に生じる様々な摩擦のあり様であり、そして、その一つ一つは偶発的で取るに足らないことを丁寧に拾い上げ、再構成することでしか、「恋愛」というものを掴むことは出来ないのではないか、という感覚であろう。「かけがえのない人(「労苦の終わり」)」であるはずの恋愛(ここでは結婚)の対象の発見もまた、散文的で偶発的な出来事として、彼らがたまたま与えられた状況のなかで、とるに足らない事柄の一つとして起こるしかない。たまたま与えられた状況のなかで、偶発的に出会った他人を、「かけがえのない人」として恋愛・欲望の対象とし、「つき合って(関係して)」ゆくこと、そのなかであらわれる日々の散文的な事柄(その貴重さ)が肯定されるためにこそ、どうでもいいような風俗的な細部が丁寧に採集(サンプリング)され、組み立てられる。横浜や渋谷という具体的な場所の風俗や、そこで若者たちによって話される言葉のリアルさは、それ自体は取るに足らないものであり、そのリアルさや正確さ自体が重要なのではなく、「偶発的」でしかないものを「かけがえのない」ものとして肯定するためにこそ、重要なのだと思う。(「かけがえのないもの」は「取るに足りないもの」の中からしか生まれないということは、「重いもの」と「軽いもの」を対比させる、ということとは全く異なる。)だから例えば「三月の五日間」では、初めて会った男女が渋谷のラブホテルに五日間籠って、コンドーム「2ダースとちょっと」分のセックスをすること(小さな状況)と、同時に遠くではイラク戦争が始まり、渋谷のホテルの外では反戦デモが盛り上がっているという状況(大きな状況)が、対照的、対比的に描かれているわけではなくて(だとしたら古くさい)、たまたま出会った二人が、たまたま過ごすことになった五日間という時間や相手との関係が成立したのが、たまたまイラク戦争が始まり、渋谷でデモが盛り上がった時期であった(その出来事の「内実」がそのような状況と不可分であった)ということが、(決して俯瞰的ではない、遠心的、拡散的な語りで)示されているのだと思う。だからこそ「三月の5日間」では、この二人とはまた別の、男の子を誘おうとして撃沈した「イタい」系の女の子(ミッフィーちゃん!)が、自己嫌悪に陥って「火星に行ってしまいたい」と思うモノローグや、デモの盛り上がりでアメリカ大使館の周りの住民は迷惑しているみたいな話が、同時に語られることになるのだ。岡田氏の戯曲は、同じようなシーンやセリフまわし、言葉などが何度も反復され、複数の俳優に受け渡されるし、俳優の語りも、観客に語りかけたり俳優に語りかけたり、伝聞であったはずの語りがいつの間にか当事者になっていたり、さらに役割が入れ替わってしまったりと、とても複雑なものなのだが、それは、たんに迂回のための迂回、話法のための話法ではなく、「取るに足らないもの」から「かけがえのないもの」をたちあげるための、そして、俯瞰的ではないやり方で、世界の広がりや厚み複雑さを示すためのものであり、だからこそ新鮮で強く、面白いのだと思う。
岡田氏の戯曲の登場人物たちは、自らが「取るに足りないもの」に囲まれていることに、そこで生きるしかないことに自覚的だが、その自覚のなかで「かけがえのないもの」をつくりだそうとしているように見える。勿論それは、そんなに楽天的に簡単にはいかないし、その試行錯誤そのものが「生」であり、その過程が戯曲として作品化されているのだと思うが。で、そこには、メタレベルとオブジェクトレベルとか、ネタとベタとか、そういう二分法(と言うか階層化、と言うか「社会学」)とは関係のない、もっと強いものがあると思う。
●あと、岡田氏の戯曲のリアルさを支える重要な部分として、女の子の描き方の生々しさがあって、例えば、「三月の5日間」のミッフィーちゃんのイタい独白とか妙に面白いし、「労苦の終わり」の、結婚するジュンちゃんのルームメイトの先輩が、別居しているダンナに向かって言う一連の「わたしに理屈を使うのがムカくつ」というセリフの流れとか、思わずうーんと唸って納得させられてしまうほどリアルだし。それと、「三月の5日間」の最後の方で、五日間限定の関係を終えた女の子が余韻に浸りながら一人で渋谷を歩いている時に、犬かと思って凝視していたものが、実はホームレスがうんこしているところだった、みたいな細部とか、そういう細部をあえて挿入するところとかが、凄い冴えてると思う。
(関係ないけど、少し前にお会いした方が、劇団本谷由希子が面白い、阿部和重の『グランド・フィナーレ』の先をやっている、みたいなことを言っていて、もしかすると、今、演劇って面白いことになっていて、観ないのは損なのかも、と、ちらっと思うのだった。)