●樫村春香は、保坂和志との対談(「自閉症・言語・存在」)で、表象=遊び(「現実」とは異なる次元としてのフィクションや作品)を可能にするのは「能受の自由な変換」であり「行為の反転」であると言う。つまり、母親から殴られた(受動)子供が、今度は人形を殴る(能動)というような形で行為を反復する、ということの出来る能力が、表象=遊び(隠喩)という機能を使えるための基礎となる、と。このような能動と受動を行き来する行為の反転的な反復は、たんなる反復よりもずっと高度で複雑な脳の演算過程を必要とする。だから例えば猫はこのような反転的反復を行うことが出来ず、よって、子猫が母猫の尻尾で遊ぶとき、それは厳密には(表象の基礎となるような意味での)遊戯とは言えない、と。それに対し保坂氏は、でも猫は遊びと本気では爪が出ているか出ていないかで違うのだと言う。それに対する樫村氏の応え。
《でも自衛隊が模擬弾で演習する時、けが人が出ないように細心の注意をするが、遊びではない。ここには本当の戦争と同じ身体支出があり、猫の「遊び」も一緒です。真の遊びの要件は行為の空間的、エネルギー的縮小と、その結果たる時間的縮小、演劇化、全課程の先取り的捕捉です。》《行為の縮小と表象があるからこそ、遊びは全能感を与え、幻想と自我の基盤となる。猫が遊んでいる、と感じる時、この幻想的躍動感を人は猫に投影し、だからそれを見て快感がある。つまり猫と人の縮尺の違いが行為の縮小の代理となるが、人はそれに気づかない。ティラノザウルスが母親の尻尾を本気で追っている現場に遭遇した気持ちを想像して下さい。その時も、なおそれを「遊び」と感じるとしたら、それは安全な場所から、頭で、彼らの運動全体をうまく捕捉した時です。つまり自分の表象能力が遊びの感情を生んでいる。》
ここには、作品、あるいはフィクションという次元について考える時の、非常に重要な指摘が含まれているように思う。
●現実そのものとは別の次元に「何ものか」を立ち上げる「作品」というものが成立可能なのは、人間の表象(隠喩)能力に依っていることは間違いないだろう。そしてそれは、現実の、空間的、時間的、エネルギー的縮小と、それによる演劇化、つまり、全課程を先取りして、俯瞰的に一挙に把捉可能にし、それを反復可能にすること(つまり現実を「隠喩」として捉えること)によって、成り立つ。それは人に「安全な場所」(自分が居る、今、ここから離れた場所)から物事を見、快楽を感じたり、悲しみや哀れみという感情を生じさせたりすることを可能にするだろう。そのような現実のミニチュア化によって、人はある安らぎと感情を(そして「世界観」を)得ることが出来るのだが、しかしそれは、まさに「現実」によって常に脅かされ、不安定に揺らいでいる。「作品」と呼び得るような作品とはおそらく、このような表象=隠喩としての「幻想(症候)」を強固に構築しようとする強い志向性と同時に、その「幻想」を常に脅かすて突き破ろうとする「現実」の感触にも晒され、強く引っ張られているという、相容れない異なる由来をもつものだと思われる。
作品の大作化、大型化を指向する人は、まさにその「大きさ」によって、作品のもつ「遊戯的性格」を突き破り(あるいは「忘れさせ」)、そこに現実的、即物的な、リアルな感触を持ち込もうとするのかも知れない。(猫の行為は遊戯に見えても、ティラノザウルスのそれは遊戯に見えない。)だがそれは、往々にして、たんなる物理的な(暴力的な)「力」の提示となりやすい。一方、作品の大作化、大型化とは別のやり方を選択する時、その作品は「小ささ」によって、既に作品の全体化(行為の先取り的な捕捉)が成立してしまい(ぶっちゃけて言えば「フレーム」が視野に簡単に納まってしまい)、作品は隠喩的(幻想的)機能のなかに閉じ込められ易い。それを振り切るためには、「幻想的躍動感」における「躍動感」(運動)を、より高度に、複雑に組織することで、「幻想」を僅かにでもすり抜け、脱臼させて、突き破るしかない。しかしそれもまた容易ではなく、しばしば「幻想的躍動感」のもたらす「快楽」に溺れることになるだろう。
●展覧会の初日に、図録にテキストを書いて下さった早見尭さんが、「アトリエで観た時にはもっと目に抵抗がある感じだったけど、こうやって展示されると、随分とエレガントな感じですねえ」とおっしゃっていたのだが、勿論、この「エレガント」という言葉には複雑な含みがあって、単純に褒め言葉として受け取るわけにはいかないのだった。