「芸術新潮」のモランディ特集

●「芸術新潮」のモランディ特集をパラパラめくっていて、やはりモランディは面白いと改めて思う。(でも、岡田温司氏によるテキストは、伝記的事実などのバランスのとれた記述はさすがだと思うものの、作品について書かれていることは、モランディ神話をなぞるようなものでしかなく、退屈だと思う。これには「作品」について書くことの難しさというのが確かにあるとは思うけど。例えば、「幾何学的な叙情性」と「混沌とした悲劇」という矛盾する二つの極の間の揺れ動きなど、モランディでなくても、ほとんどどんな画家にも当てはまってしまうことだと思う。岡田氏がここで、モランディにおける二つの極の間の揺れを指摘することで、完璧で揺るぎないスタイリストというようなイメージを壊したいのだという意図は分かるが、それにしてもこのような事柄は、モランディの作品を注意深く「観る」ことなしでも「言葉の上の事」としていくらでも書けてしまうし読めてしまう、という範囲に留まる。ある抽象的なイメージに対し、別のもう一つのイメージ(側面)をぶつけたとしても、それが「作品」が持っている独自の感覚に届いていなければ、別の言葉が上書きされただけということにしかならないのではないだろうか。勿論それは、岡田氏がモランディを注意深く観ていない、ということを意味するのではないが。)ぼくは、モランディでは、「静物」は勿論だが「風景」を描いたものが特に面白いと思う。それは単純に、静物よりも(サイズは変わらなくても)捉えられている空間のスケール感が大きくて、開かれた空気や光も通っていてきもちがいいということもあるけど、それだけでなく、モランディにとって「静物」というのは、あくまでも画家が主体的(能動的)にコントロールし構築するものであり、どちらかといえば古典的な絵画のような構築性が強く感じられるのに対し、「風景」はそれよりは幾分かは、(既ににあるものを描くのだから)向こうからやってきた「感覚」を掴み、それをどのように描く(構築する)のかという要素(つまり受動性)が強くあって、その分、「静物」よりもやや要素が複雑で制御が困難である分、作品から得られるものが豊かでゆったりとした感じがするからだと思う。(例えば、P46に載っている1936年の《風景》の、画面左上の方から射してきて全体に鈍く反映される、滲み出るような微妙な光の感じなどは、静物の作品からはあまり感じられないものだ。まあ、印刷図版で「見えた」ものが、実際実物を観た時に同じように「見える」かどうかはわからないのだけど。)勿論、モランディが描くのだから、そこには強固な構築性やコントロールへの強い意志がみられるのだけど、だからこそ、そこにあらわれる僅かな戸惑いというか、あるいは開放感というか、そういう微妙な表情が魅力的に思える。
●あと、同じ号に、いしかわじゅんによる吾妻ひでおの(主に『失踪日記』をめぐる)インタビューが載っているのだけど、これは、いしかわ氏の吾妻氏に対する思い入れが強過ぎるせいなのか、インタビューというよりいしかわ氏の「自分語り」になってしまっていて、インタビューとしては全然駄目なのではないだろうかと思う。