●昨日の夜、『タイガー&ドラゴン』をはじめて観たけど、あまり面白いとは思えなかった。大して面白くない話でも、話法を複雑にすればそれなりに「観られる」ものになるし、一つ一つのシーン(あるいはネタ)そのものが面白くなくても、テンポよく次々に繰り出せば、それなりの時間を「もたせる」ことが出来る、というのは宮藤官九郎のテレビドラマの脚本のいつものやり口だけど、このドラマからは、その「やり口」しか見えない感じがする。つまり、テレビドラマにおけるクドカン的方法論の行き詰まりのように思える。テキストとして古典落語を用いて、そのエピソードを少しずつ意味をズラしながら、複数の登場人物に割り振りつつ、ズレを重ねてゆくことくらい、クドカンほどの力量の人なら、ほとんど何も考えずに「手技」だけで自動的に出来るのだろうし、その結果として作品からはその「手技」だけがみえてくることになる。話法を複雑にし、ズレを増殖させ、ネタを次々と繋げてゆくためには、大勢の(複雑に関係する)登場人物が「必要」なのだが、このドラマの人物たちはまさに、その(手法上の)「必要性」のためだけに設定され、配置されているという安易さがあると思う。ズレをつくりだす手口が、「手口」にしか見えないのは、このドラマの設定が、ジャンル物としての「ヤクザ」という「型」と、一見それとはほど遠い世界に思える「落語家」の世界とを、「父(組長=師匠)」を中心とした家族的な集団という共通項によって結びつける、という、単純な「意外性」のみに負っているからだと思う。つまりもともとの設定に「型」の上での意外性の面白さがあるだけなので、例えば『木更津キャッツアイ』にあった、現代の日本の「地方」の若者たちの関係性のあり方の(閉塞感の)リアルさのような、そのドラマの面白さの核心のようなものがない。『木更津キャッツアイ』や『池袋ウエストゲートパーク』の登場人物たちは、それがいかに現実からかけ離れたデフォルメされた人物として設定されていたとしても、その人物たちには、ある環境のなかで、そのようにあるしかないという必然性やリアリティが宿らされているのだが、『タイガー&ドラゴン』の人物たちには、たんにキャラクターとしての「型」があるだけなのだ。だから主演の長瀬智也も、『池袋ウエストゲートパーク』のような魅力的な幅を持った演技をすることが出来ず、ただ「ヤクザ」という型をなぞることしか出来ないのだと思う。
あと、キャスティングや演技や演出という次元でも、質が高いとは言えないと思う。例えば、西田敏行によって演じられる「師匠」が、たとえ西田氏ほどの達者な演技を望めないとしても、実際に落語家が演じていたら、それだけでドラマの説得力が(単純に「寄席」のシーンだけを考えても)全く違ったものになるのではないだろうか。このドラマには、クドカンのテレビドラマの常連のような人たちがたくさん出ているのだが、この常連の人たちの演技から、クドカンのドラマはこんな感じでやれば良い、みたいな嫌な、悪い意味での「慣れ」が感じられてしまうのも、このドラマのつまらなさに繋がっていると思う。例えば、ぼくは岡田准一という俳優はとても良い俳優だと思っていて、好きなのだが、このドラマでの岡田氏は、まさにクドカン的な「型」の呪縛に陥ってしまっているように感じられた。阿部サダヲのような人でさえ、そうみえた。(クドカンのドラマが、窪塚洋介岡田准一のような、新鮮で魅力的な若手の俳優によって支えられていたことが、『タイガー&ドラゴン』では忘れられているように思う。)ゲストとしての薬師丸ひろ子の使われ方にしても、完全に「型」にはまってしまっていて、実際にカメラの前に存在している薬師丸氏から、「何か」を引き出そう意思が、演出する側には全くないとしか思えない。