今月の「新潮」に乗っている椹木野衣の論考がつまらないのは、

●今月の「新潮」に乗っている椹木野衣の論考がつまらないのは、「うまい/へた」という価値観を相対化しようとして、結局その単純な二元論を強化してしまっているだけだからだ。(椹木氏がうまうま、とか、うまへた、とか言う時、おそらく糸井重里の、ヘンタイよいこ、とか、セイジョーわるいこ、とかの分類が頭にあるのだろうが、そこには糸井氏の分類にあった、既成のものとは全く別の価値観の設立のようなものはなにもない。)椹木氏が「うまい絵はつまらない」と書く時、そこには驚くほど単純な価値の転倒しかなく、根本的な問いかけ、価値の相対化はまったくみられない。例えば椹木氏は、うまい絵について次のように書いている。《線に迷いがなく、色づかいに屈託がないということは、言い換えれば技法が内面化して、ことさらには問われることがないということであり、極端に言えば「手癖」で描いているということだ。つまり「うまい絵」がつまらないのは、それが無反省の所産であり、「線を弾く」ことや「色を塗る」ことについて、なんら疑いを持たないからである。》そのような「うまさ」に対するカウンターとして、会田誠の「みんなといっしょ」という連作のコンセプトが挙げられる。それは画用紙にフェルトペンと学童用の絵の具で描かれ、「思いついたらすぐ描く」「資料は見ない」「下書きしない」「なるべく早く仕上げる」というようなルールに従って制作されている。つまり、じっくりと時間をかけ熟慮を経てて制作される「うまい絵」の「うまさ」を引きはがすために、「思いつき」や「スピード」が採用される、と。しかしちょっと考えればわかると思うのだが、思いつきや早さによって制作される作品はむしろ、「手癖」をはっきりと露呈させる傾向にある。(勿論、必ずそうだ、というわけではない。)考える前に動く手がなぞるのは、何よりも内面化され自動的に作動するようにセットされた技術であろう。むしろそのような「手癖」を裏切るためにこそ、時間や迂回が必要な場合もある。制作はそんなに単純なものではないだろう。ここではもう一つ、フェルトペンや画用紙、学童用の絵の具といった、吟味された伝統的な、そしてブランド化された材料でなく、「通販で手に入るような安手のもの」を使用するような描画素材の貧しさによる会田氏の「モダニズム」が、指摘される。しかしこれも(30年前ならともかく)次の引用に明らかなように、あまりに素朴なアナーキズムというか前衛主義に根ざしている指摘だと言うべきだろう。《ノーウェイヴにたとえれば、「拾って来たギターをチューニングも合わせないままそのままアンプに突っ込み、あとは弾く」とでもいいかえられようか。ギブソンフェンダーだ、膠だ顔料だ、などとほざいている暇があれば、いますぐ弾き、いますぐ描け、と言ってよもよい。》しかし会田氏の作品は、そのようなアナーキーなものなのだろうか。ここでは、フェルトペンや学童用の絵の具が、会田氏にとって、あきらかにノスタルジーフェティシズムの対象として採用されていること、つまりそれは親しいものであり、母国語であり、手癖でもあるという側面には、全く触れられていない。(図版掲載されている作品からも、そのノスタルジックな性格ははっきり見てとれる。)この論考全体がきわめて「早く」書かれたものであり、まさに椹木氏の「手癖」だけがみえてくるようなものになってしまっているように思う。