平山瑞穂『ラス・マンチャス通信』

平山瑞穂『ラス・マンチャス通信』を読んだ。この小説は一つの小説としての統一感を欠いているようにみえるのだが、逆に、それによってある種の「通俗性」のようなものから救われているような部分もあるのかもしれない。第一章は、それだけで独立した短編として書かれたようにみえ、第二章以降とは感触が明らかに異なるし、最期の第五章は、物語こそ連続しているのもも、いきなり全く別の小説になってしまったかのようにみえる。最も幻想性が高く、密度の濃い第一章はぼくには退屈で、物語を強引に回収しようとしているとしかみえない最終章は、無駄な付け足しにしか思えない(「狂ったの芸術家」「閉ざされた館」「人形への愛情」というところに収斂してゆくというのは、最悪ではないか)。よく、純文学とエンターテイメントには本質的な違いはない、という人がいるが、それは明らかに違っていて、その違いは読めば分かるものだと思う。それはジャンルの違いなどではなく、言葉が描き込まれる場所の違いとでも言うべきもので、つまり前提となるジャンルなり物語なり読者層なり社会的背景なりといったフレームがまずあって、多少そこからはみ出したりしつつも(フレームを前提としていなければ「はみ出す」ことは出来ない)、その中で言葉が配置され構築されるようなものと、そのようなフレームを前提と出来ないところにいきなり言葉が書き付けられ、重ねられ、反復されて、その積み重ねがある程度構築と呼べるような構造性を得ることが出来た時にはじめて、その作品が存在することの出来るある空間(フレーム)が事後的にたちあがってくるように(少なくともそれを目指して)、書かれるようなものの違いだと言えると思う。『ラス・マンチャス通信』から感じられる統一感の無さや中途半端な感じは、まさにこの二つの異なる「書かれ方」の間の揺れ動きに起因しているように思われる。
●最も密度が濃いと思われる最初の章がぼくには退屈に思えてしまうのは、その表面の書き込みがいかに濃密で奇想に満ちているとしても、それが描き込まれる基底にあるものが単調だと思われるからだ。喩え話をすれば、単調で退屈な構造しかもたない彫刻作品の上に、いくら派手な彩色がなされたとしても、その彫刻の退屈さが救われるわけではない、というのと同じようなことだろう。この話は例えば、重度のひきこもりの「兄」を抱える家族の話として、その兄を殺してしまう弟の話として、容易に読み替えることが出来てしまう。つまりそのくらいに、この一人称の話者の「世界認識」はしっかりしていて揺らぎも破綻もなく、つまり幻想的で奇妙な細部は装飾的な細部であり、小説の構造をすこしも揺るがさない。第二章以降は、幻想的な雰囲気はやや薄れ、物語の内容も、ごく普通の「施設(少年院)」での体験や、出所後の労働の描写が、割合と淡々とつづくようになる。これらの部分を読んでいると、この作家が小説を書くリアリティを支えているのは、人間関係のなかで浮上する関係の不透明性や、そのザラザラした感触のようなもので、幻想的なものは風味づけ程度の重要性しかないように感じられる。(例えば、第一章の「アレ」や、第三章の「次の奴」というのを、ただたんに「兄」とか、普通の妖怪っぽい名前と差し替えて読んでみるだけで、その幻想的な要素がいかにありふれて退屈であるかが分かると思う。)この小説で最も面白いのはおそらく、主人公と稲河と由紀子(と箕裏)との関係の描出であり、その関係に影を落としている、主人公にとって「性的なものの」の源泉とも言える姉との関係だろう。だから、その4人の関係と、予想外の姉との再会が描かれる第三章と第四章は、この小説で最も充実した部分だと思われる。この部分はかなり面白い。(そして第五章が全てを台無しにしてしまう。とはいえ、いかに最期の章がヒドいとしても、それまで読んできた第三、第四章の面白さが全て消えてしまうというわけではないのだから、出来の悪い別の短編が巻末に一つ添付されていたと思えばよいのだろう。第三、第四章の面白さだけでも、この小説を読む価値は充分にあるのだから。それにしても、このような分かりやすい「解決」が、この小説を商品として成立させるためには必要だということなのだろうか。)