ウェス・アンダーソン『ライフ・アクアティック』(2)

●昨日、『ライフ・アクアティック』について書いたことは、ちょっと分かりにくくて強引だったかも知れない。映画のポストモダン的な話法というのがあるとする。例えばそれは、ティム・バートンだったりデビッド・リンチだったりナイト・シャマランだったりするだけでなく、ジョン・ウォーターズだったりピーター・グリーナウェイだったり、もしかするとロバート・アルトマンだったりもするかもしれない。ウェス・アンダーソンは、それらの作家たちによって積み上げられた話法の高度な達成を、ほとんど無意識(かどうかは知らないが)のうちに自分のものにして、自在に使いこなしているという感じがある。そして、そのようなポストモダン的な話法を駆使して語られるのが、アメリカ映画がくり返し語ってきた伝統的な「良い物語」である、と。つまり、ウェス・アンダーソンは、マニエリスムと化したポストモダン(というか、ポストモダンマニエリスムとしてしかあり得ないのかも知れないのだが)から、伝統的な「良い物語」へと回帰した、いわば新古典主義のような存在だと、普通に考えれば言えるのかもしれない。(例えばティム・バートンなどは、まさにそのような意味で新古典主義者と言えるのではないか?)昨日の日記でぼくが書きたかったことは、しかしそれでも、『ライフ・アクアティック』の面白さは、マニエリスムから良い物語への回帰、というのとは、全く別のところにあるのではないか、ということなのだ。
●確かにウェス・アンダーソンは物語の語り方が無茶苦茶に上手い。例えば、銀行から派遣される会計監査係のおっさんのキャラクターなど、その存在だけで涙が停まらないほどだ。しかし、そのような語りの上手さが、例えばティム・バートン(『ビッグ・フィッシュ』)のようには「美しい物語」へとは回収されない。それはどこか、壊れた部品をかき集めたようなゴツゴツした感じが最後まで残る。一つ一つの細部の粒立ちが(例えばポール・トーマス・アンダーソンなどよりも)生々しく、その結びつきがスムースではないようにみえる。全体としては確かに、「古くなったテクノロジーこそが感性である」(柄谷行人)というような意味での偽のノスタルジーのトーンによって統一されているようにもみえるのだが、一つ一つのシーンはもっとバラバラな感じなで、結びつきは弱いのだ。つまりこの映画は、物語を語ることによって成り立っている映画ではなくて、その都度その都度あらわれる、具体的な一つ一つのシーンの(それ自体は無根拠な)「現れ(の強さ)」によって成り立っている映画なのだと思う。
●この映画では、過剰なまでに作り込まれた構図があるかと思えば、屋外で撮影されたシーンなどでは、意外なほど自然主義的リアリズム風の描写もあったりする。そしてそのような描写と、CGでつくられた人工的な海洋生物とが、あたりまえのようにルーズに(おおらかに)繋げられている。つまりこの映画では、ある世界観に基づいて細部が作り込まれ配置されているというより、様々な細部が、かなりぶっきらぼうに次々と「付け足される」ことによって出来ているようにみえる。予めフレームが設定されているのではなく、次々と加算的に投入される(継ぎ足しされる)細部の積み重ねによって、結果としてある世界観があらわれてくるに過ぎない。この映画の開かれた風通しのよい感じは、このことに起因するのではないだろうか。一見、うつくしくオーソドックスにもみえる物語にしても、まるでズィスーのつくる映画のように、その都度(いきあたりばったりに継ぎ足された)様々な部分を付け足してゆくうちに、結果としてこうなった、という感じなのだ。