昨日の付足し。『珈琲時光』について。

●『珈琲時光』を観ると、かなり編集でスリムにしたような印象を受ける。例えば、寿司屋の脇で萩原聖人と話している若い女性の存在が浮いてしまっているのだが、これは、この女性にまつわるなんらかのエピソードがあったのに、それをまるごと切ってしまったからなのだろう。あるいは、クレジットではこの映画に夕張市が関係していることが記されているのだが、夕張市のシーンはなくて、おそらく一青窈が両親との電話で話していた「目の手術をする北海道のおじさん」のエピソードが撮影されたのだろうと思われるが、それも切られてしまったのだろう。おそらく脚本上にあったであろう、この映画を映画として成立させるための様々な方便と言うか、説話上の仕掛けのようなものの多くが、編集の段階で削ぎ落とされたのではないだろうか。そして結果として、一青窈がただふらふらと東京をさまよっているだけのような印象の映画になった。それはおそらく、撮影されたフィルムを観たホウ・シャオシェンが、余計な説話上の工夫などなくても十分に成立すると判断したからなのだろう。ぼくはまた、当たり前のことを書いているだけなのかもしれないが、これは凄いことなのだと思うのだ。(この、当たり前のことの徹底した強さが凄いのだ。)この映画では、一青窈の存在の寄る辺無さを説明するために「チェンジリング」の物語が採用されているし、浅野忠信が鉄道の音を録音しているという設定もあるのだが、結果としてみれば、それすらも必要なかったのではないかと思わせるほど、この映画の画面は充実しているように思う。様々な要素をはぎ取るということが、映画をシンプルにするというよりも、その画面から受け取るものをむしろ複雑にし、豊かにする。一青窈が、雑音に満ちた街中を、所在無さげにふらふらと歩くその姿だけで、全てが言い尽くされているようにみえる。一青窈が演じる陽子という人物が、何をどう考え、どのように感じているのかはさっぱり分からないのだが、一青窈の身体が東京の具体的な風景のなかに置かれていて、それが(その動きが、その関係が)的確に捉えられていれば、そのようなこと以上に、ある人物の存在のあり様がくっきりと浮かび上がる。これはミニマリズムなどとは全く正反対のものだと思う。
実家に帰った一青窈が、その前の台湾への旅行(?)の疲れなどもあってか眠り込んでしまい、夕食の時間にも起きてこない。夜中に目覚めた一青窈は、空腹のために台所に出て来て食べ物を物色する。この時の、一青窈の後ろ姿をやや離れた位置から捉えたショットがある。ここでの後ろ姿は、まさに、本当に、実家に帰って気が抜けて眠ってしまって夜中にごそごそと一人で起き出した姿としか思えないものなのだった。それは勿論、(一青窈の演技の問題だけでなく)薄暗い照明やカメラとの距離、そして着ているシャツの背中の皺のより具合などの全てを含めた、トータルなイメージとして、そうなのだ。このような単純で複雑なイメージの力がこの映画を支えており、そして、ある人物の存在の寄る辺無さを示し、それを肯定している。