ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』で...

ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』で、一青窈の演じる娘のアパートに両親が訪ねてくるシーンがある。もともと会社の上司だった人の葬式が東京であるからというのが表向きの理由だが、実は両親は娘の妊娠について知りたがっている。母は娘に、相手はどんな人で、結婚する気はないのか、などと聞く。娘は、相手は台湾で日本語の教師をしていた頃の学生で、彼は母親にべったりのマザコンで、しかも家族で傘の製造をしていて、結婚なんかしたら家業を手伝わされるに決まっているから、絶対あり得ない(絶対無理)という。相手に対してそのような冷淡な態度をとりながらも、彼からは今でもちょくちょく電話があり、頻繁に連絡し合っているとも言う。(頻繁に台湾へ出かけてもいる。)さらに娘は、貯金もなく、収入も安定していないにも関わらず、心配しなくても一人でちゃんと育てるから、と言う。このような会話は、母と娘の間でなされていて、父はその間ずっと、娘の隣に黙って座っている。おそらく父には、娘の考えていること、感じていることがさっぱり理解できない。だからここで何も口を挟むことが出来ず、ただ俯いている。しかしこのシーンは、決して親子の断絶や理解の不可能さ(だけ)を示しているわけではない。このシーンは、母がつくった肉じゃがを父と娘が並んで食べるというシーンでもあり、全体としてはむしろ「家族的な親密さ(と気まずさ)」のような雰囲気が支配している。父にとっては、娘の「考え方」はまるで異星人のようですらあり、決して受け入れられるものではないだろう。しかしそれでも、実際に隣にすわって肉じゃがを食べている娘は、幼い頃からずっと育てて来た娘であり、その存在はきわめて「親しい」ものである。父にとって、娘の「考え方」はとうてい受け入れることの出来ないものなのだろうが、それ以前に、娘の存在を受け入れ、肯定してしまっている。(しかしこの「家族的肯定」は決して確固たるものではない。娘はものごころつく前に産みの母親に去られていて、自らが出自を失った「取り替え子」であるという意識=無意識があり、この親子の「家族的親しさ」は、このような基底の不安定さの上にこそ成立している。)
●今、元横綱であった兄弟の確執が話題になったりしているが、おそらくここには兄弟であることの「親密さ」こそが、理性では制御出来ないような感情のもつれを誘発してしまっているのではないだろうか。例えばぼくにも弟がいるのだが(妹もいるのだが)、ぼくには子供の頃の記憶として、弟に対して(子供であることの残酷さから、そして兄であることの絶対的な優位によって)ひどいことしてしまったという事柄がいくつかあり、その負い目は一生忘れることはないだろうし、それは弟にとってはさらに忘れられないことなのではないだろうかと思う。(物語のネタになりそうな特別な「何か」があったわけではないが。)これはまさに、幼年期に共に生活していたという近さによって生じた、記憶の深いところに埋め込まれた、どうしようもない部分としてある。だからと言って、現在ぼくと弟とが敵対的な関係にあるということはない。(ごく普通に兄弟の関係なわけだし、弟と会う度に、いちいちそのことを想起し、意識するわけではないし。)しかし、将来何らかの理由で確執が発生した時、過去の記憶に埋め込まれたものが作動してしまい、互いの感情のねじれやゆがみを理性では理解しがたい程に増幅させてしまうという恐れが全くないとは言えないだろう。この前の展覧会で、弟夫婦が観に来てくれた時、弟の奥さんがぼくの書いた「文字」を見て、「字が同じですね」と言ったのだった。顔が似ているというのならともかく、ぼくは弟と「筆跡」が似ているなどということを意識したことは一度もなく、まったく想定の範囲外で、直接的に身体的なものではないだけに、きわめて「恥ずかしい」部分を見抜かれたという感情をもったのだった。このように、「家族的親しさ」というのは第三者の指摘によって知るしかないような(恥ずかしさという感情によってしか浮上してこないような)、意識出来ない部分をこそ規定してしまっていて、それが意識出来ない部分で決定されてしまっているがゆえに、その「親しさ=近さ」によって生じた感情は、理性によってはコントロール(切断)しがたいものとなるのではないか。
●おそらく、『珈琲時光』の父と娘の関係(存在の肯定)を支えているものと、元横綱の兄と弟との関係(確執)を生み出しているものとは、全く別のものではない。しかしだからといって、その両方を同様なものとしてしまって良いのだろうか。そして、(諸刃の剣ともいえる)そのような「愛/憎」の関係を理性的な分節によって切断しようとしたとしても、「理性的な分節」への「欲望」を支えているものもまた、理性的な分節の外に(底に)ある「別のもの」であることを忘れるわけにはいかない。つまりそれもまた、別の「愛/憎」(あるいは「愛/憎」に対する「愛/憎」の感情)によって支えられている、としたら。(樫村晴香は、数学の問題を解く歓びは、純粋に「問題を解く」歓びなのか、それとも、それによって「他者に賞賛され、承認されること」の歓びなのか、簡単には区別出来ない、と言っている。)理性的な分節を指向するからといって、必ずしも「愛/憎」の関係から逃れられるわけではない。(つまりメタ言語は存在しない。)おそらく、その重力圏の内部で作動しつつ、その外への指向をももつような、何らかしらの具体的な技芸が必要とされる。