ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』

ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』をものすごく久しぶりにビデオで観た。思いのほか、人物の顔のアップの多い映画だった。それはともかく、ヴェンダースのロード・ムービーにおける風景は、その風景のなかを動いてゆく、孤独で寄る辺無い人物の内面や実存のようなものと切り離せない。それは決してその人物の心象風景などではなく、人物とは切り離された「異質なもの」ではあるのだが、その異質性や、風景から立ち上がってくる生々しい表情は、それを観ている人物が孤独であること、関係の網の目から転げ落ちてしまっていることよってはじめて「現れる」ものであり、だからこそ、風景の異質性や生々しさは、人物の孤独や寄る辺無さと相同なものとして映画のなかに置かれる。人物の孤独はそのなかに場所を得ることが出来ず、そこに書き込まれることがないのだが、それによって結果的に、風景は人物の孤独をも「表現する」ことになるように思う。風景は、人物の内面を表現するために、それに奉仕するものとしてあるのではなく、風景それ自身としてあり、人物と風景は切り離されているのだが、その「切り離されている」ことによって人ははじめて風景(の生々しさ)と出会うので、だから、風景は人物の孤独「も」表現することになる。(ヴェンダースにおいて風景の「異質性」は、生々しさとして現れると同時に、それはまるで絵はがきのような「うすっぺらさ」でもある、両義的なものだ。)だが、ジャ・ジャンクーの『世界』のような映画では、風景は人物のあり様を「表現」せず、もっと根本的に切り離されている。切り離されているという言い方は正確ではないかもしれなくて、風景は人物に対して圧倒的に作用し影響を与えるのだが、人物は風景に対して全く何の作用も及ぼすことが出来ない、という感じなのだ。だから風景はたんに圧倒的なものとしてそこにあり、しかしそこに生活する人物をまったく「表現」しない。人物はそのような風景に晒されながら、自らの場所をなんとか得るために、(通俗的ともみえる)「情」による繋がりを求め、そのなかで生きようとする。情によるドラマが、圧倒的な風景のなかで、風景の暴力的力に吹き晒されながら展開し、そこから聴こえるかすかなきしみが、人物の存在を感じさせる。ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』でも、寄る辺無い人物が漂うように描かれるのだが、ここでは人物は風景=環境と切り離されてはいなくて、人物は風景=環境との密接な関係のなかにある。ここではむしろ、人物は風景=環境とけっして切り離せない(切り離されては存在出来ない)ものとしてある。そのようななかで、人物の歩き方やちょっとした仕種や喋りの癖、息づかいなどが、環境のなかに埋没し切れない異質性として、違和感のように浮かびあがり、そこにだけ、固有性というか、孤立した存在の匂いが、ふっと漂わされる。