ギャラリーGANで、牧ゆかり・展

●青山のギャラリーGAN(http://www.presskit.co.jp/presskit/top.html)で、牧ゆかり・展。(観たのは昨日。牧氏の前の展覧会については、この日記の05/01/13と05/01/14で書いています。)
今回の展示は、前回の個展の時のような、端正で完成度の高い作品とはうってかわって、思い切り「はじけた」感じの作品だった。作品として上手くいっているとはちょっと言えないと思うのだが、この「はじけ方」は悪くはないと感じられた。「はじける」といっても、たんに抑圧や規範が解除されてしまって、ただ感覚的な楽しさに流れているということではなく、一見、感覚的な楽しさに淫するように見えるもののなかから、作品が作品たり得ることの「根拠の無さ」に対する不安のようなものに直面しようとしている姿勢が感じられたからだ。おそらく牧氏はとても上手な画家で、ここで上手というのはつまり、感覚的なパターン認識力やパターン把握力が優れているということで、こういう人は割合と易々と一定の質の高さをもった作品をつくることをクリアー出来てしまうのだが(これは学生時代の作品のファイルなどからも強く感じられる)、その分、(「学習対象」というか「攻略目標」のようなものを見失うと)先細りのような感じになりやすいという傾向があると(経験的に)思う。今回展示されている作品は、まさにそのような危機に直面しており、そのような危機を(習い憶えた)高度な技巧によって覆い隠すことなく、はっきりと露呈させていることが、この画家の誠実さを示しているように思う。(危機、とか書くと何かとても「苦しい」作品のように思えてしまうかも知れないのだが、そんな感じはなくて、むしろ「楽しい」感じで、それがこの画家の資質を示しているのかもしれない。)
●画廊に作家がいたので少し話した。牧さんは、今回の作品をつくっている時はとても楽しかった(楽しくつくることが出来た)のだが、同時に、自分には作品の制作を支える「軸」のようなものがないことを痛感した、それをはやく掴みたい、ということを言っていた。それに対しぼくは、「軸」を無理矢理設定しようとあせるよりも、「軸のない不安」を持続させることの方が重要ではないか、と言ったと思う。牧さんは、でも、信じるに足りる「何か」がはっきりとしていた方が強いし、それをじっくり時間をかけて追求できるのではないか、と言い、ぼくは、信じるに足りる「何か」がはじめから決まっているのではなくて、それが確定されない状態での試行錯誤のなかで、いろいろなことが徐々に深まってゆくのではないか、「何か」は最初にあるのではなく、結果として出てくるものなのではないか、というようなことを言ったのだったが、牧さんにはピンとこなかったみたいだし、ぼくも言いたいことが上手く言えてない感じのままで、画廊を出たのだった。
●で、そんなもやもやした気持ちのまま、移動の電車のなかで保坂和志の『小説の自由』をパラパラめくっていたら、ぼくが牧氏に言いたかったけど上手く言えなかったことが、的確な言葉で書かれているのを発見した。それは「視覚化されない思考」という章で、この章は、マザー・テレサの言葉からフェルマーの最終定理の証明、そしてカフカの小説へと話が繋がり、さらにそれが将棋や囲碁の話になる。
《プロ将士は一回の対戦で何ヶ所かある分岐点をすべて想定して、それに対する結論を保留して、すべて仮定のままの状態にして指し手のプランを組み立ててゆく。だから将士の力量は、結論を出さない仮定の量とも言えるが、それ以上に仮定に対して結論を出さずに仮定のまま持ちこたえられる踏ん張りだと言うことができる。》
ぼくが「軸がないことの不安を持続させる」という曖昧で不正確な言葉で言おうとしたのは、まさにこの《仮定に対して結論を出さずに仮定のまま持ちこたえられる踏ん張り》ということなのだった。
《麻雀ではこの仮定の立て方と持ちこたえ方は違ってくるが、早い話が、強い人ほど手を決めない。どういう展開になっても対処できるように曖昧なまま進めることができる。下手クソには不要としか見えない牌でも、強い人には「××がきたらこれは必要だ」という風に多くの可能性が見えている。》
今、行っている行為、例えば、キャンバスにタッチをおいてゆくことだったり、牌を切ってゆくことだったりを行いつつ、その一つ一つの行為によってあらわれたり消えたりする多くの「可能性=結論をださない仮定」が同時並列的に「見えている」という状態で行為する(制作する、ゲームをする)ということが重要で、そういう状態で行われる追求こそが追求なのであって、そのために必要なのが、手近にある分かりやすい「結論」に飛びついてしまわずに、仮定を仮定のままで持ちこたえる「踏ん張り」なのだと思う。あらかじめある「しっかりとしてブレない軸」によってなされる追求は、確かに効率的だし、そしてそれは一見「強く」て「正しい」もののようにも見えてしまうのだけど、それは視野を狭め、可能性を限定し、多くのものを見ないことによって成り立っていて、それはものごとの硬直化につながってしまうように思う。
●ちょっと話がズレるかも知れないのだが(しかし関係があると思うから書くのだが)、昨日テレビを観ていたら、どんな番組かは知らないけど、みうらじゅんが出ていてケンカについて喋っていた。だいたいケンカっていうのは自分が正しいと思うからケンカになるわけでしょう、でもぼくは今まで生きてきた経験上、そんなにいつも自分が正しいとは思えないんでね、アイ・ドント・ビリーブ・ミーなんですよ、だからたいてい自分からすぐに謝っちゃいますけどね。これを聞いて改めてみうら氏の偉大さを思ったのだが、これが今日の話とどう繋がるのかと言えば、「しっかりとブレない軸」なんかよりも「アイ・ドント・ビリーブ・ミー」という感覚の方がずっと貴重だと言うこと。「私」はつねに「アイ・ドント・ビリーブ・ミー」であるという不安のなかで生きるしかないし、その不安を何か別の根拠によって解消してしまうことは、誠実であるとは思えないのだった。