青山真治『レイクサイドマーダーケース』(1)

青山真治の『レイクサイドマーダーケース』をDVDで。この映画はぼくにはあまりピンとこなかったのだが、このピンとこない感じは、この映画が一見してだけでは捉えられないような複数の要素を含んでいるからなのかも知れない、と思わせるくらいには「複雑」であるせいなのかも知れない。でもそれは、何だかよく分からないけど、何か凄いことになっている、というようなものではなく、青山真治という映画作家に多少でも思い入れのある人にだけ作用するような複雑さであるようにも感じられる。
●この映画は、私立探偵濱マイクのシリーズとして撮られた『名前のない森』の続編というか、リメイクのようにも思われる。森と小屋の映画であり、その小屋にあつまる、何だか知らないけど妙に「足並みをそろえた」人たちのなかに、それとはやや異質な人物が乗り込んでくることから物語が動き出す、そして、その異質な人物もまた、徐々に「足並みをそろえた」人たちと同化してゆく、という意味で。だから、真っ黒な水面によって視力を遮られて測ることの出来ない湖の深さは、幾重にも重なる木々によって人を寄せ付けない森の奥の深さと繋がっているように思う。この映画において「深さ」は決して目では見えないものとしてあり、一つ一つは異様にくっきりしている「目で見えるもの」は、むしろ深さを覆い隠すため遮蔽幕のようにあるのだろう。木々や水面だけでなく、直射日光や車のライト、懐中電灯などの光によっても視力を奪われる主人公(この映画において、「光」が見るための役に立たないことは、湖に死体を捨てにゆくシーンで突然あらわれる車のヘッドライトが何も照らし出さないことによっても明らかだ)は、まさに「何も見えない」のに近い状態で、ある状況に投げ込まれ、その状況の力によって、分けも分からないまま行動することを強いられる。主人公を「状況」に結びつけ、分けも分からぬままの行動を強いるのは、別居中の妻や娘に対する感情=愛情(あるいは、妻や娘との関係)であるが、目が見えないまま手探りでその状況を探り、状況への違和感を保ち続ける導きの糸として作用するものまた、妻や娘への(そして殺された愛人への)感情(関係)であるだろう。本来ならば主人公にとっては無関係であるか、あるいは批判的であるだろうある「状況の強いる力」に、主人公の男は「女たちとの関係」によって引きずり込まれ、そのなかで「手を汚し」、その環境に「加担する」ことになる。関係の固有性が、男に、ある環境への同化、着地を強いるのだ。『名前のない森』で永瀬正敏が森に帰ってゆくのは、彼の「心の問題」(あるいは「構造」の問題)にすぎないが、『レイクサイドマーダーケース』の役所広司が森の環境に同化するのは、「関係の絶対性」(に強いられること)による。しかし勿論、(視界から一時的に隠された)湖の底には、死体はしっかりと「物」として存在しつづけ、いつか「回帰」する時を待っている。(ラストのチャチなCGは、これを示すために絶対必要なのだ。)
●とはいえ、この映画本編は、「ここhttp://www.netlaputa.ne.jp/%7Ek-moto/VoiceTheLakesideMurderCase.html」で読める冨永昌敬による「感想」ほどには魅力的(あるいは「強いもの」)ではないように思う。やはり気になるのは、この時に「子供たち」はどうしているのか、ということである。この映画はあくまで「大人たち」の側による映画であるだろう。だからこそこの映画を「子供たち」がどう観るのかが気になる。そういう意味では、この映画は、大人たちによる「子供たちのための」(子供たちによって観られるための)映画なのかもしれない。子供たちもやはり、新たな「彼女」を葬るために、湖に帰ってくることになるのだろうか。