ヘンリー・ジェイムス『ねじの回転』

●「ほのめかす」ような表現というのは、しかるべき時に狙いをすまして使われるならば、何かを濃厚に匂わすことが出来るのかもしれないが、核心に迫ることがまったくないままに、ただ「ほのめかす」言い方ばかりが分厚く重ねられ、しかもその「ほのめかし」が何を隠しているのか(意味しているのか)は、それを語っている人物以外にはミエミエであるにも関わらず、それでも依然として「ほのめかし」ばかりが延々とつづいてゆくというのが、ヘンリー・ジェイムスの『ねじの回転』の書かれ方で、解読の欲望を起動させるまでもないミエミエの「ほのめかし」の積み重ねは、まるでぐにゃぐにゃとした半透明な層が分厚く重なり合ううちに、その層の向こう側にある実体(意味)よりも、視線と「それ」とを隔ててているものの存在、その「ほのめかし」の層の重なりによる屈折や重苦しさの方こそが前面に出て来て、それこそがぐっと生々しく感じられるようになる。つまりその「何重にも重なる半透明な層」の存在こそが、『ねじの回転』によって描かれているものなのだろう。主人公の女性家庭教師に「幽霊」を見させているのは、明らかに屈折し抑圧された「性的なもの」なのだとしか読めないのだが、しかし『ねじの回転』が描こうとしているのは「性的なもの」そのものやその存在であるよりも、主人公をそこまできつく縛って不自然な姿勢を敷いているヴィクトリア朝時代のジェルのように重たく粘着する鬱陶しい「場の空気」なのだろうと思う。主人公は邸の主人に魅了されているだけでなく、自分が養育すべき美少年のマイルズに対しても強い欲望を感じているのは(本人以外には)ミエミエなのに、本人だけがそれに気付かない。いや、気付かないと言うよりも、彼女の意識はそれを認めることを拒絶し、激しく抵抗しているのだ。(それも当然で、それを認めることは、自分の価値を認めて欲しいと願っている主人に対する裏切りというだけでなく、自らの立場上、マイルズとの関係の破綻をも意味するのだから、マイルズに対して強い欲望を感じている限り、いればいる程、その欲望を自ら「認める」わけにはいかなくなる。このような欲望のあり様こそが悲劇なのだった。)この小説のクライマックスは、その白々しいまでのシラバックレぶりが、もうほとんど破綻すれすれにまで矛盾の度合いを高め、異様なまでの緊張感が漲る。この物語は、第三者によって記されるのではなく、事件から10年後にこの女性自身によって記されている。(正確には、女性による手記を「話者」がもっと後になって整理しているのだが。)このことがまた、主人公の屈折を複雑なものにする。主人公は、自分の物語を語ることによって、また再び自分に対して嘘をつくことをくり返し、重ねることになってしまうのだ。そして、その嘘の含み持つ矛盾が、どうしたって自分自身を騙し誤摩化しきれないところまで高まった瞬間(はじめから、あまり信用出来ない語り手である気配を漂わせていた彼女の語りは、終盤、ほとんど支離滅裂の一歩手前にまでなる)、自分自身の人格を崩壊させてしまう代わりに、自分の欲望の対象を破壊してしまうのだった。