神代辰巳『噛む女』

神代辰巳『噛む女』をビデオで。この映画には不思議な魅力がある。
ドラマとか脚本とかの次元では、ぼくにはこの作品はちょっと受け入れがたいところがある。これはバブル時代につくられた全共闘勝ち組の男たちの話で、主人公は、昔は映画青年で、今はアダルトビデオの会社の社長をしていて羽振りが良い(映画は主人公の一家が広い一軒家に引っ越すところからはじまる)。昔の仲間もそれぞれ、テレビ局のディレクターをしていたり、俳優として成功していたりする。つまり、社会的な地位もお金も手に入れたが、何かがどこかで違ってしまったのじゃないか、みたいな気分が基底的に存在する男の話だと言える。この主人公の人物像は、あまりに身勝手な上に甘ったれていて、映画を観ていてもなかなか受け入れることが難しい。しかし、それが次第に受け入れられるようになるのは、ひとえに永島敏行という俳優の魅力による。永島敏行は、この主人公の男の空虚と焦燥と諦念とが入り交じったような「気分」を、心理的なニュアンスをあらわすような演技ではなく、その大きな身体を所在無さげに、苛立たしげに、かったるそうに、使うことによって表現している。しかしその所作は、ほとんど「がさつ」さと紙一重ではある。永島敏行は、服を着ている時は身体のでかいガサツなオッサンという感じではあるのだが、裸になると妙な(ガタイの良さだけでなく、ある種の危うさを同時に感じさせるような)色っぽさを発散させる。この主人公の(受け入れがたい)人物像は、永島敏行の「裸」のもつ色っぽさによって(魅力と説得力を得て)支えられていると言えるのではないだろうか。この『噛む女』というタイトルを持つ映画は、「噛まれる」のが(女の歯を受け止めるのが)、他ならぬ永島敏行の広い肩であることによって支えられ、その生々しさが作品全体へと波及する。永島敏行の大きくてニュアンスを欠いた身体の使い方が、私小説的なロマンチシズムを剥落させ、その上で、「裸」のもつエロティックな表情が映画を震わせる。もう一人の主要な登場人物である、主人公の妻を演じる桃井かおりの存在もまた、とても大きいように思える。この人物は、主人公が家庭を、そして自分を顧みないことによる欲求不満を、子供との関係によって解消しようとしていて、さらには夫を陥れようとするような人物像として設定されている。つまり、夫が妻と向き合おうとしないのと同様、妻も夫と向き合おうとはしない。この人物は、ちょっと『悲愁物語』の江波杏子を思わせるような狂気をはらんだ人物なのだが、それが桃井かおりによって演じられることで、そこに「自己完結している強さ」のようなものが付け加えられる。確かに彼女は夫に顧みられないことの寂しさを抱えているし、それが夫への「策略」につながるのだが、しかし、桃井かおりによるこの人物が子供と遊んでいる姿は、むしろ夫の存在を必要としないような(夫を好きではあっても、その存在に依存していないような)「強さ」が感じられるのだ。この映画の桃井かおりには、ちょっとジーナ・ローランズを思わせるような感触すら感じられる。この映画では、夫がもろくも崩れてしまうのに対し、妻は強く生き残る。この映画の男たちは皆、世代論のようなことばかりしか言わないし、そういうもののなかに捕われて生きているのだが、桃井かおりはそれとは別の場所で生きているような強さがあるのだ。(付け加えておくが、ぼくは永島敏行や桃井かおりという俳優を決して「好き」ではないのだけど、この映画を観ると、さすがだと思うのだった。)
●この映画で最も不思議なのは「子供」の捉え方で、凡庸な監督なら、夫婦の争いの影響を受動的に受け入れるしかない無力な被害者として捉えてしまうだろう子供の姿を、この映画では全く異様な捉え方がされている。一言で言えばこの子供は、夫婦の関係など全く感知しておらず、全然の別の次元で、別の原理によって動いているように捉えられている。例えばこの女の子は、しばしば夜中ベッドのなかで泣き出したりするのだが、それは夫婦の関係の不安定さを察知した不安からなどではなく、全然別の理由、彼女独自の内的理由から泣いているとしか思えないのだ。この女の子は、この映画の物語の重力圏から全く自由で、まるで幽霊か宇宙人みたいに浮遊している感じなのだった。この女の子は、映画の外から映画のなかへ、映画のなかから映画の外へと(永島敏行が開けたり閉めたりするあのタンスの引き出しから)自由に行き来しているようにさえ見える。こんな変な子供の捉え方をしているの映画は、ぼくの知っている限りでは、鈴木清順の『悲愁物語』くらいだろう。
●『噛む女』は、作品としては、監督、神代辰巳の代表作と言えるような完成度ではないのだが(いかにも「神代的な」細部は、だいたい失敗しているし)、そうであるがゆえに、神代氏の、俳優の身体的な特質を触覚的に捉えるような、そしてその触覚性を作品として組織化してゆくような資質が露骨に現れているというような意味で、貴重な作品であるように思う。