●夕方からは雨みたいだよ、という発話された文は、実際に雨が降るのか降らないのかという事実との関係によってのみ意味を持つのではなくて、例えば、出かけるのなら傘を持っていった方がいいよ、という意味であるかもしれないし、あなたには出かけて欲しくない(ここに居て欲しい)、という意味であるかもしれない。通常、ここでの意味は文脈によって決定されると言われるのだけど、しかし、実際に文脈というものが「ある」わけではないと思う。ついさっき天気予報で聞いたことをたんに口にしてみただけなのを、それを聞いた相手が、じゃあ傘を持っていった方がいいかも、と判断するのかもしれないし、出かけた相手がその先で事故にあってしまったりして、あの時私は虫の知らせを感じていて、だから暗に出かけない方が良いという意味でそれを言ったのではないか、と事後的に解釈されるのかも知れない。だからここで「ある」のは文脈ではなくて、発語された言葉(文)の物質性(つまりどのような意図であろうとその言葉が言われてしまったという事実)であって、文脈というのは、その物質性の効果によって後から生まれる(だから決定できない)、というのが多分デリダなんかが言っていることだ。そしてこれは、ラカンが言っていることとそれほど違ってはいなくて、ラカンは、それ自体としては確定された意味を持たないシニフィアンの流れがあり、それに意味を与えるのはその流れにある時点で区切りをつけて、遡行的に一定の時間内でフレーム(文脈)をつくってやることだ、とする。そして、その流れに外側から区切りをつけてやり、意味を確定させてやり、その意味の根拠を「知っている主体」として引き受けてやるのが分析医なのだと。つまりここでは、意味を最終的に引き受けてくれるのは文脈ではなく、それを引き受けてくれる他者の存在であり、発語(言語行為)は、そのような他者がいることへの「信頼」によって成り立っている、と。(だからここでは、文においてその「意味」よりも、それを「引き受けてくれる人」の存在が重要なものとなっている。極端なことを言えば、意味とはその文が向けられる他者であり、「その人」のことだ、ということになる。)
だけど、脳科学やコンピューターによる演算能力が飛躍的に進んで、もし、ある人がある文を発語するに至る時に「脳」で行われている様々な演算の過程の全てを、解析・分析することが可能だということになれば、ある時ふと口にされた「夕方からは雨みたいだよ」という文には、特定の、固有の「意味」が「存在する」ということになり、確定されるということになるのではないか。(勿論、この「意味」は、その文が社会的な空間のなかでどのような「効果を持つか」ということとは別のものだ。)しかしその時、「意味」とはその人の「脳」の内部に徹底して閉じたものとしてあり、つまり「意味」は、その人のその時の身体(の状態の全過程)そのもの、ということになるしかない。