『阿部和重対談集』(1)

●『阿部和重対談集』を読んでいて圧倒的に面白かったのは(短いけど)角田光代との対談で、それはまるで阿部氏の小説を読んでいるような面白さがあり、阿部氏自身の発言も、阿部氏の小説の登場人物みたいになっていた。
阿部氏はおそらく凄く真面目な人なのだと思われ、対談する相手の本を綿密に読み込み、質問等も前もって考えてあるのじゃないかと感じられて、特に相手が女性作家である時に顕著なのだが、その結果として対談というより、阿部氏によるインタビューのように感じられてしまうことがある。(最もそう感じられたのは赤坂真理との対談だった。)対して、高橋源一郎保坂和志など、年長で同性の同業者との対談では、対談ぽくなっているのだが。
阿部氏の生真面目なサービスは、相手が赤坂真理桐野夏生の時はそれなりに効果をあげていて、相手を気持ちよくさせ、のった話を引き出すことに成功している(とはいえ「対談」という感じではないのだが)と思えるのだけど、角田光代は、阿部氏の必死の努力にも関わらず、サービスに食いついてこなくて、終始ペースがかわらない。そのため阿部氏の語りは空転しはじめ、暴走ぎみになる。(角田氏はしらけているのでは決してないが、終始自分のペースを崩さないのだ。)まず、この対比がとても面白い。そして、空転し暴走ぎみの阿部氏の語りは、まるで「阿部和重の小説」の登場人物のような感じになってゆくのだった。例えば、自分は男性であるから女性を描くことが難しくて、どうしたって男性のファンタジーを押し付けるようになってしまう、という話が、それに対する対策として、「例えば、女物の服とか着るわけですよ」という風に展開してゆく時、このイメージの飛躍というか論理の展開のされ方が、まるで「阿部和重の小説」に出てくる人みたいで笑ってしまう。しかし、ここまで過剰にサービスしても角田氏はただ「いやあ、でも、阿部さんの話おもしろいですね」とかサラッと言っておしまいなのだった。そして「そうでしょう?おもしろくしようとがんばってるんですよ、角田さんのために(笑)」という半ばキレ気味の発言が、オチとしてきれいに決まり過ぎてしまうところも、「阿部和重の小説」っぽい。
赤坂真理との対談で、阿部氏は、他者を意識するからこそ自己言及的にならざるを得ないという話をしている。人は、他者の視線に晒された自分を意識することで自己を確認するので、他者とのコミュニケーションの現場では、《言語を介して成されているわけですから、いわば謎のかけ合いのような他者とのやりとりが続くことで、疑念や認識のずれが大きくなっていって、その部分の自覚を推し進めようとするためにますます自己言及的になってゆく》、と。(この発言の後、赤坂氏の小説において、セックスを含めた「さわること」の重要性が指摘されるのだが、そういえば、阿部氏の小説で「さわること」が重要な要素となることはほとんどないのだった。)
これは、阿部氏の小説の展開を支えている基本的な原理の一つなのだと思うけど、それと同時に、おそらく阿部氏自身のことを語ってもいるようにみえる。そしてこのような、互いに相手を意識することで自己言及的になる、逆に言えば、ある種の自己言及的な語りによって、他者を巻き込み、他者との関係を展開させてゆこうとするような、阿部和重的なやり方が、角田氏には通用しなかった、ということだと思うのだ。つまり、角田氏が「他者とのコミュニケーションの現場」で行っていることは、前述した阿部氏の原理とは全く別の事柄なのだ、ということだと思う。
●確かに、自己言及的なもの、に魅了される人とそうでない人がいると思う。だからといって、(例えばこの対談集のなかで東浩紀が言っているように)自己言及的なものに反応しない人がそのまま「素朴に物語を消費する(動物化した)」人だとするのも、あまりに短絡的なように思う。(そのような意味で、東氏、阿部氏、法月氏による鼎談は、そこで扱われている事柄があまりに狭く、というか、一面的、一方的であり過ぎて、とても窮屈な感じがした。)