『もののけ姫』(宮崎駿)

●『もののけ姫』(宮崎駿)はいままで観ていなかったのだが、DVDで観て驚いた。なにしろこの作品は、宮崎駿作品なのに人が空を飛ばないのだ。軽々と天空へと飛翔する人物の代わりに、この映画では、徹底して地を這い回る獣たちがいる。さらに、天空へと飛翔し、果敢に闘うことで人々を導くと同時に慰撫し、その姿が、観客の「萌え」を喚起するはずの美少女キャラは、この作品では地を這う獣の化身のような姿で存在し、「萌え」を喚起しない。地を這う獣たちは、『風の谷のナウシカ』のオームの延長とも言えるが、しかしオームは巨大ではあるが「昆虫」であるのに対し、『もののけ姫』の獣たちは、山犬やイノシシや猿といった、もっと血なまぐさい「獣」たちなのだ。つまりこの作品での宮崎駿は、自らの得意技をことごとく封印している。『もののけ姫』の世界設定は複雑で、主人公の青年は、その複雑な関係のなかを横断してゆく者であって、その行動(アクション)によって何かを「解決する」者ではない。もともと宮崎作品の設定は、単純な善悪二元論には納まらないものが多く、どちらが正しいとも誰が悪いとも簡単には言えないような状況のなかで、人々は状況に呑み込まれてどうしようもない「闘い」を強いられている。しかし多くの作品では、そのような複雑で絶望的な状況そのものよりも、身体的な能力がどこまでも拡張してゆくような感覚を観客に与える「アクション」の方が勝っていて、観客は(物語や世界設定の複雑さや陰鬱さを忘れ)そのアクションによってカタルシスを得ることが出来る。(例えば『未来少年コナン』の設定は極めて複雑であるのだが、観客はそのような複雑さではなく、何よりもコナンのアクション=身体能力の「限界の無さ(無限とも思われる拡張性)」にこそ魅了される。)しかしこの作品では、アクションは確かに極めてきっちりと描かれてはいるものの、そのアクションは身体能力の拡張感を伴うものではない(主人公の青年の身体は、腕に刻み込まれた「呪い」の刻印によってあらかじめ限定づけられている)し、天空へと飛翔してゆくようなカタルシスももたらさない。(『風の谷のナウシカ』のように、少女の存在が世界の救済の「隠喩」となるようなこともない。「もののけ姫」は、獣に生成変化した、たんに一人の少女に過ぎなくて、世界に「救い」をもたらすわけではない。山の神でさえ、世界を救済する特権的な力を持たない。)むしろアクションは、地を這い回る獣たちの「血なまぐささ」や?怒り」ばかりを表象するものとして機能しているように思う。(この「獣」たちの描写は凄い。この作品のような、獣の「獣性」がほとんど純粋な「力」となって形象化されるような描写は、動物をすぐに「人間的」なものとしてしまう欧米のアニメーションではみられないものだろう。ただ、獣たちに人間の言葉を喋らせる「やり方」には、もう一工夫必要だったのではないかと思う。)その結果として、この作品からは、宮崎氏の怒りや絶望ばかりが、異様なテンションで漲るということになる。作品としては、必ずしも成功したものとは思えない(中途半端に民俗学を勉強したような世界設定や、あきらかに欧米受けを狙っていると思われる細部などは、批判されて当然だとは思う)ものの、ある種の「気迫」のようなものが全編に漲っていることは確かだと思う。宮崎氏の「思想」には必ずしも賛同しないものの、この(あえて自らの得意技を封印することによって滲み出てくるような)「気迫」には強く心を動かされるものがある。