タルデンヌ兄弟『ある子供』

●汐留の、スペースFS汐留で、タルデンヌ兄弟の『ある子供』の試写を観た。タルデンヌ兄弟の映画は、視覚を極めて狭い範囲に限定することで、観客の視線を的確に誘導する。そのような意味で、この映画はとても良く出来ていると思うが、しかし、どうしても好きにはなれない。前作の『息子のまなざし』も、極めてシンプルないくつかの原理によって出来ていた映画で、その原理の徹底によって、とても変な映画になっていて、その「変さ」において、面白いと思うことが出来た。なにしろ、おっさんの後頭部ばかりを延々と見せられる映画なんか、そうそうないのだから。しかし、『ある子供』は、あまり面白いとは言いがたい。
多くの人がビデオやデジカメなどを使用する現在において、誰でもが実感することだと思うのだが、カメラというのは放っておくと余計なものをたくさん写し込んでしまう。だからこそ、映画の演出において、視覚をどのように限定して、観客の視線を速やかに「見るべきもの」に導くか、ということが問題になる。映画の演出とは、拡散してしまいがちな視覚をどう限定づけるかなのだ、と言うことさえできるかもしれない。視覚の拡散性を抑圧して、物語の経済性や、映像の連鎖のリズムを尊重することが、ある種のアメリカ映画の魅力だとも言える。この『ある子供』という映画のカメラは、登場人物と近い距離に常にあり、登場人物を常に「どアップ」に近い状態で映し出すことによって、観客に「見えない」状態を強いる。あまりにも登場人物に近いカメラは、登場人物がそこに居る「風景」や、登場人物の「たたずまい」さえも、観客から見えないものにする。(ヒロインの女の子がはいているスカートの柄さえ、なかなか分からないのだ。)その替わりに、「音」はとても生々しく拾われ、観客は多くの情報を音によって得ることになる。そのことによって、拡散する視覚が捉える空間のひろがりが塗りつぶされて、映像と音の連鎖が形作る、単線的なリズムのみが強調される。観客は、空間や風景を、ただ、登場人物のアクションを通じてのみ、知ることが出来る。これは、ほとんど描写のない小説を読んでいるようなものだ。「ほとんど」描写がないということは、「全く」描写がないということとは違う。「ほとんど」描写がないからこそ、数少ない描写が的確に観客に対して効果をあげるだろう。しかしこの「的確さ」は、観客にとっては、作者(映画作家)による統制があまりに強過ぎる、という堅苦しさ、息苦しさを感じさせるものでもある。この映画は、あまりにも「見ること」が制限され過ぎているように思う。この映画では、作者(映画作家)が「見せたいもの」しか、見ることが出来ない。
例えば、ブレッソンの映画においてもまた、見ることは強く制限され、そのイメージはブレッソンという作家によって強く統制されていると感じられるだろう。しかし、ブレッソンにおいては、その統制の強さは、あくまでイメージそのものの「強さ」に依っていて、その限定性による伝達の効率性に依っているわけではない。つまり、イメージの限定は、イメージの「強さ」のためのものであって、伝達の「効率性」のためのものではない。ブレッソンの映画は、見ることを強く限定付けながらも、「見えづらい」という感触を観客に与えることはほとんどない晴れ晴れとしたイメージによってつくられている。しかしタルデンヌ兄弟の映画では、見えづらさによって観客を(単線的な時間の流れに)誘導するという感じがある。タルデンヌ兄弟の映画の、あまりに登場人物の近くに寄り添った手持ちのカメラは、疑似ドキュメンタリータッチによる生々しさを生むためにあるというよりも、見せたいものだけを見せるため(そのために観客の視覚を塞ぐために)、余計なものを画面から排除するためにこそ機能しているように思う。しかしぼくは、俳優の立ち姿や歩き方の示すたたずまいを、俳優が(登場人物が)置かれているその風景や空気を、もっと見たいと感じるし、それを「見せる」のが映画の面白さだと思う。タルデンヌ兄弟の映画では、俳優や風景が、作者の狙い(単線的な流れのリズムの束縛)によって殺されているとさえ感じてしまうし、観客は、逃げ場の無い狭い路地に追いつめられて、ただ、決まった方向へと煽られ、追い立てられているだけだとも、感じてしまうのだ。この映画には、世界の「広がり」を感じさせるものが欠落しているように思う。
くり返すが、この映画はとても高度な、良く出来た作品だと思う。しかしその「良さ」は、観客の視線を強く束縛して、速やかに作者の思惑通りに事を運ぶ段取りの鮮やかさとしての「良さ」なのだ。その限りにおいて、タルデンヌ兄弟は、「良い」作品を効率的に製作するやり口をあみ出したという意味で立派であり、国際的な映画祭で賞を取りつづけるのも理解出来る。ただ、それが映画の可能性を広げるものであるとは、ぼくには思えないのだった。
●生まれた子供を認知するために市役所で書類を書く時の主人公の男性の手の汚れ、や、子供を連れた公園で、水溜まりで靴を濡らし壁に靴跡をつけるシーンの主人公の何とも言えないたたずまい、や、主人公とその仲間の少年が銀行から出て来た中年女性の鞄をひったくった後のアクション、逃亡の末の川の水の表情の生々しさ、など、視覚的な表情として素晴らしいシーンはいくつかあるのだけど、それらがあまりに効率的で、統制されたものであることが、観客を、やや、しらけさせるのだと思う。
●『ある子供』は、恵比寿ガーデンシネマにて、12月末より公開予定だそうです。