●六本木のアスミック・エース試写室で、ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』。久々のヴェンダースだが、あまりにも率直で「良識的」な、つまりほとんど「安易」と言っていいような「メッセージ」が語られる映画で、びっくりする。ヴェンダースがアメリカで生活する以上、著名な映画監督として、自分の「立ち位置」を分かりやすく明確に示す必要があり、それを強いられるような状況がアメリカにある、ということは想像出来る。このような「良識的」な見解を、強く押し出さなければいられない程に、現在のアメリカがひどい状態になっているのかも知れない。しかし何故それを自分の「作品」でしなければならないのだろうか。例えば、イスラエルからアメリカにやってきた主人公の少女が、イスラエルに居る友人(?)とチャットする場面で、少女が、イスラエルで何が起こっているのかを、こっちの人は何も知らないし興味もない、というようなことを書くと、チャットの相手は、だからこそ自分は作家になってこの現状を多くの人に知らせ、世界をかえるのだ、と応える。文学(物語)が人々を啓蒙し、その力で世界がかわるのだということを素直に信じている人が(フィクションの登場人物とはいえ)いて?その信念がこのように率直に語られてしまうことに、ポストモダン以降の日本を生きるすれっからしであるぼくなどは、動揺させられてしまうのだ。このような考えをそのままヴェンダースが共有しているとみるのは安易だとしても。
この映画を、9・11以降のアメリカを描いた物語としてではなく、以前から何度もくり返し語られているヴェンダース的な主題の変奏、つまり、『都会のアリス』や『アメリカの友人』と同様に、周囲から切り離された孤独な人物の話であり、孤独な人物と別の孤独な人物とが、ふとしたきっかけによって、ある関係(交流)をもつ、という物語なのだと思えば、ある程度は納得がいくだろう。あるアラブ系のホームレスを、彼がアラブ系だというだけでテロリストの一味だと思い込み、彼を執拗に尾行し調査する頭のいかれた(ベトナム帰りの)孤独なおっさんが、その自分勝手な妄想によって(妄想が引き起こす「調査」という行為によって)、殺されたとしても誰もそのことに興味を持たないような(これまた孤独な)一人のホームレスと、特異な関係を持つ。おっさんの妄想は自分勝手な押しつけに過ぎないが、その妄想によって、世界のなかに埋もれてしまっている一人の存在に光があたるのだし、それによっておっさんは、彼の死や、彼の家族との関わりを、思いもかけずにもつことになる。もしこの方向でこの映画が突き詰められていれば、それなりに興味深いヴェンダースの映画になったかも知れない。しかし映画はその一方で、おっさんの孤独を救ってくれる「少女」という存在を、あらかじめ物語のなかに仕込んでおく。つまり、いきなりイスラエルからやってきた少女によって、おっさんの孤独は癒されることがはじめから「保証されて」しまっているから、孤独な人物同士の(偶発的で特異な)「関係」という主題は、弱くなってしまう。この、無垢な少女は、おっさんが「イカレて」いることをナチュラルに察知し、やわらかく受け止めてくれるのだが、これはあまりに「おっさん」にとって都合が良過ぎるというもので、例えば『都会のアリス』の少女とおっさんとの関係は、いくらなんでもこんなに単純でも一方的でもなかったはずなのだ。
●とは言っても、ぼくはこの映画を嫌いではない。この映画の良さは、風景がきちんと撮られ、示されているという点に尽きるのだと思う。ヴェンダースは、アメリカで最もホームレスが多いとされるロサンゼルスのダウンタウンや、トロナという寂れた地方都市の風景を、きちんと見せてくれる。おそらくその点によってだけ、この映画は観る価値のあるものになっていると思う。映画は物語やメッセージを伝えるだけでなく、そこにあるもの、眼に見えるものを、見せる。それがいかに重要なことであるか。
●この映画の前半は、アメリカの貧困と、おっさんに(ほとんどアメリカの歴史として)刻まれた孤独の深さを(風景=環境をきっちりと見せつつ)重々しく描いていくのだが、ホームレスの死体を家族に届けるために車で旅に出る頃から、この重たいリアリズムは、いかにもヴェンダース的な遊戯空間に変質してゆく。おっさんの孤独は少女という「遊び相手」(くり返すが、しかしこの遊び相手は『都会のアリス』のような同等の存在ではなく、母親的な、おっさんを理解し保護する上位の存在であるのだが)を得ることで希薄となり、ほとんど戦争ごっこや探偵ごっこをする子供を描写するような感じになって、トランシーバーや双眼鏡、監視カメラなどといった、孤独と疑心暗鬼と妄想とを表象するような小道具たちも、楽しげな遊び道具のように見えてくる。この楽しさはやはりヴェンダースを観ることの最大の歓びのひとつで、このような遊戯の楽しさが、「襲撃」の失調によって残酷にしぼんでゆき、そこであらためて殺されたホームレスやその兄、そして少女と向き合う、というあたりでこの映画が終わっていたら、傑作というにはほど遠いにしろ、それなりに良い感じだったと思うのだが、説明とメッセージばかりが述べられる最後の方は弛緩しているし、無駄に長過ぎるのだった。
●ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』は、10月にシネカノン有楽町などで公開されるそうです。