●昨日につづいて、一日中ずっとドローイングを描いていた。描くもの(紙やスケッチブック)がなくなってしまったので、たまたまあったA4サイズの再生紙の茶色い封筒(5枚残っていた)に描いてみたら、けっこういい感じなので、「KOKUYO」シリーズにつづいて、茶封筒シリーズ(もっと気の効いたタイトルはないのか)もつくろうかと思った。
●線というのは、それ自身として、表情や動きをもつのと同時に、輪郭線として、ある形態を「暗示」させる。その時、輪郭線を閉じてしまわないで、複数の線の(星座のような)関係として形態を暗示させることによって、一本の線が、同時に複数の形態の一部分となることが可能で、つまり、形態を暗示させるものとしての一本の「線」に、同時に複数の意味をもたせること(一本の線が同時に複数の形態の一部分であること、最も単純な例で言えば、横顔にも壷にも見えるというあの「絵」みたいなこと)が出来る(この作用によって、画面が「動く」)。そしてそれだけでなく、線は、紙の地の色に対する「色(差異)」としてもあり、紙全体のなかの配置やリズムや区分け(つまり、白い紙ならば、広い領域の白や狭い領域の白をつくり出す)によって、同じ色であるはずの紙の地の色に、複数の多様なニュアンスをもたせる。さらに、何よりも重要なのは、線や形態が途切れることで「ブランク(空白)」をつくり出すということで、このブランクの作用によって、紙の色と線の色の二色しかない画面上に、無限に複雑な空間を立ち上げ、空間を重ね書きし、複雑なニュアンスを生み出すことが出来る。(ブランクは、たんに線のない場所?紙の地の場所というだけでなく、空白と言うしかない独自の抽象性をもつ。それはつまり、音が「途切れる」ことによってリズムが生まれる、というような意味での抽象性なのだ。)画面の上に一本の線を引くということは、これらの全て同時に干渉し、影響を与えるということなのだった。(このような線描の可能性を、最も豊かに引き出している例が、マティスのドローイングだと思う。)