群像」10月号、石川忠司・保坂和志対談

●「群像」10月号に載っている石川忠司保坂和志対談は、とても面白いと同時に、とても難しい。ここで語られていることの一つ一つを、たんに面白いエピソード(というか「考え」)として読むならば、それほど難しくはないかも知れないけど、それら、語られてい一つ一つの事柄相互の関係や流れ全体で「何を」言おうとしているのかを掴もうとすると、とても骨が折れる。
●例えば、「未然問題」というのが語られる。もしかしたらこの対談が行われたかもしれない日(実際には行われなかった日)に、猫に下剤を飲ませ過ぎて体調を悪くさせてしまった。もしその日に対談が行われていたとしたら(相手の都合で他の日にならなければ)、その日に猫の世話をする余裕はなく、下剤を飲ませることもなく、つまり体調を崩すこともなかったのに、という可能性を想定することが、相手への逆恨みにつながる。しかし、本当にその(実際には行われなかった)日に対談が行われていて、猫の身に「何も起こらなかった」としたら、相手のおかげで「何も起こらなかった(ありがとう)」という風には思わない。つまり、事件が(起きなかったかもしれないのに)起きたということを言葉に(問題に)することは容易いが、(起きる可能性があったにも関わらず)何も起きなかったことを、きちんと言葉にするのは難しい。さらに、この「未然問題」にしても、事件が起こったことの反転としてしか「起こらなかったこと」を問題に出来ていないので、十分ではない、とする。
《でも、「ない」というとき、事件が起きることに対しての反対の「ない」ということで、やっぱり事件に依存しちゃう方の「ない」だから、空間全体をいうような考え方にシフトしていかないといけない。》
《自分が、親のセックスから始まって、受精卵からこうやって生きてきているのは、本当に奇跡的な確率じゃない?それは大変なことであるということも、途中で何か事件が起こると、その事件のことばかり言われる。それが空間のなかの一点のものを指すという思考と、空間全体をいえないというのと同じなんじゃないかと思うの。》
●ここで「空間」という言葉が出てくるのは、この前の部分で、未然問題は空間とパラレルだ、ということが言われていたからだ。空間そのものは、物のように「これ」といって指さすことは出来ない。しかし、空間はそこに存在している。例えば「居住性」という言葉がある。我々は、天井が高いだとか窓が南向きだとか、そのような個別の要素をチェックすること(指さすこと)は出来るが、それら全てを総合した「住みごこち」のようなものは、具体的には眼に見えない。住んでみてはじめて、生活の様々な場面の折り重なりによってそれを知る。つまりその空間全体としてある「居住性」のようなものは、指させるようなものとしては、つまり空間的な一点を数えあげるようにしてにしては、「見えない(言えない)」のだが、しかしそれでも、その「住みごこち」は、まだそこに誰も住んでいない前から、そのがらんどうの部屋(空間)のなかに、既に「全部ある」はずだ、と。
つまりここでは、空間全体(既に「全部ある」はずの居住性)を、その一点(天井が高いとか窓が南向きだとか)に代表させて言うのではなく、空間全体のあり様(住み心地のような)として描くような言葉の使い方で言うことがもし出来るとすれば、同じ様に、《こうやって生きていること》そのものを、事件に依存するような描き方ではないやり方で、その《奇跡的な確率》を、「ない」(起こらなかった)ことそのものとして、描き出すことも可能なのではないか、ということが言われているのだと思う。
●ところで、「もしその日に対談をしていたら猫の具合は悪くならなかったのに」という逆恨みから、その「対になる感情」として、「その日に対談をしてくれたおかげで猫は無事だった」という感謝という感情も可能性として「あり得る」のではないかということを「見い出す」ためには、言葉による抽象的な思考の操作が必要だろう。逆恨みという感情は誰でもが自然に持ちうるものだが、それを反転させて、「何もなくてありがとう」という場合も「ある」のではないかと考えるためには、言葉という媒介を操作することで、一度自分の実感から距離をとらなければならない。だがこの操作は、たんに形式的なものなのだろうか。ここで抽象的操作によって見いだされた「何もなくてありがとう」は(それがまだ「事件」に対する否定としての「ない」であることから不十分だといわれるとしても)、実感とは異なる、抽象的であるからこそ可能になるある実質的なリアリティを感じさせる。この、抽象的であることによって浮上する「実質」というのは、一体何によるものなのだろうか。
●しかし、この後の二人の話はやや混乱しているように思う。ここでの問題は、何かが起こった時に、それに対して、何も起こらなかった場合を想定して、それとの比較で、ある感情をもつことは自然にある(つまり、どうしてもそのような考えの流れになりがちである)のだが、何も起こらなかった時に、その時に起こったかもしれない何かを想定し、それと比べて、何かしらの感情をもつ(そのような感情もあり得ることを知る)ためには、「抽象的な思考の操作」がどうしても必要となる、ということの非対称性にあるのではないかと思う。(そして、ワイドショー的な事件や「自我」に依存しない「言い方」をするためには、このような抽象的な操作が必要なのではないか、ということ。)それがここでは、良いこと/悪いこと、起こった/起こらない、感謝する/恨む、という、3つの対の8通りの組み合わせという問題にズレていってしまっている。この部分の混乱によって、前の部分の、未然問題と空間との関連が見えづらくなってしまっているように思えた。さらにここで保坂氏が、起こった/起こらない、は、世界の問題だけど、恨む/感謝する、は人間の問題だと言い、それを返す石川氏が、恨む/恨まない、は、人間の問題だが、感謝する、は、はっきり世界の側の問題だ、と発言する時、ここで言われているのは、今までの流れとは「別の何か」で、問題が切り替わってしまっているように思う。まあ、このように次々と話題が移り変わってゆくのが会話というもので、だからこそ面白く、考えを刺激するのだが、しかし、それを読み込もうとするのはとても「骨が折れる」のだった。