●ひきつづき、ドローイング。いいところまでゆくのだが、最後の一歩のところで空間を見失う、という感じがつづく。これは、自分がやっていることに対しての慣れが出て来て、気分がちょっと単調になってしまっているということもあるけど、やっていること、というか、画面に対する要求が、かなり難易度の高いものになってきている、ということでもある。途中までかなりいい感じだったのに、この線が一本あるおかげで、画面の右上四分の一ほどの空間が潰れてしまっている、とか、この線とこの線とが、接していないで、その間にほんの少しだけの隙間があれば、ここの空間が開けていたのに、とか、そういうのが何枚もつづくと、どうしても集中力が散漫になってきて、気分にムラというか、荒れ、のようなものが出て来てしまう。(何でもそうだと思うけど、たまに「いい感じ」のものが出来て、「いい気持ち」にならないと、何かをつづけてゆくのは難しい。たとえそれが自画自賛でしかなくても。)基本的に、絵を描く時、一度やってしまったことは消すことは出来ない。それは、今、ぼくがやっているドローイングが、紙に、筆を使って墨汁で描いているから、ということだけではない。どんな絵でも、一度やってしまったことの(画面内部での)意味を、次にやることによって(別の要素を付け加えることで)「変える」ことが出来るだけなのだ。(画面を白く揺り潰すことも、消しゴムで消すことも、そのような意味で行為を「付け加える」ことであって、「消す」ことではない。)そのような意味では、一回やったことの誤摩化しようのない、毛筆のドローイングは、描きはじめた最初の線から、最後に引いた線まで、自分のやったことの全てがはっきり見えているので、後から見たときに、その時に探っていたもの、あるいは、見失ったもの、が確認しやすい。
●ある行為に熱中していると、ある地点でふと、自分に見えていることが、他の人にも同じように「見える」ものなのだろうか、という不安がもたげてくる。というか、常にこのような不安と共に行為するしかない、と言った方がよいのかもしれない。このような不安を解消することは不可能だし、また、解消されてしまうことが望ましいとも思えないけど、でも、伝わらなかったら伝わらないで仕方が無い、その時はその時でまた考えるしかない、と思って、開き直って自分勝手に突っ切らないと、「共通の了解」のなかでしか喋らず、その「共通の了解」の根拠について何も疑わない人、と、同じようなことになってしまう。