●しつこいようにドローイングの話。線は、それ自身としての色彩や表情や動きをもつ、というポジティブな側面があるだけでなく、例えば、白い紙に黒い線で描かれた時、白い領域の広がりを断ち切る「断層」または「ブランク」としても作用する。(逆に、白い領域は、黒い線を断ち切る断層でもある。)白いひろがりの領域を断ち切る「ブランク」としての線は、白いひろがりという「図」に対する「地」となり、その時に線は、たんにネガティブなものとして作用し、「眼には見えないもの」となる。いや、黒と白との対比やその配置のリズムを眼は感知しているのだが、しかしその黒い部分を「線」としては認識出来ていない、ということだろうと思う。(「線」を見ようとする時には逆に、白い領域が「地」となり、そのひろがりが「意識」から消える。)これはいわゆる「輪郭線」というのとは違う。輪郭線という時、我々は、白い領域の広がりを見ているのでもないし、線の動きや表情を見ているのでもなくて、「形態」という抽象的なものを見ている。そうではなくて、「白い領域のひろがりと、それを区切り、区分けし、空白を差し挟むものとしての黒いブランク」、としての画面があり、あるいは、それが反転したものとして、「黒い線の表情や動きやリズムと、それを区切り、区分けし、空白を差し挟むものとしての白いブランク」、という画面がある(勿論それは同一の画面の複数の「あらわれ」なのだ)ということだ。この反転は決して、画面全体として一挙に起こるのではなくて、今見ている部分部分で、その眼の動きや注目の仕方などによって、細かく振動するように起こる。勿論、時には、眼は線を輪郭として捉え、そこに形態を見ることもあるだろう。(そして形態も細かく反転する。)このようにして絵は「動き」、風が通り、空間がたちあがる。だから、一本の線が引かれる時、それは、それ自身としての、表情、動き、リズム、配置などが充実していなければいけないだけでなく、同時に、白い領域の広がりを、区切り、限定づけ、その全体の配置を動かすものでもあることが、常に意識されていなければならない。そうでない線が一本でも引かれると、その画面の空間は死んでしまう。(これは一般的な話ではなく、今、ぼくがやっているドローイングが、このようなものだ、ということなのだ。)