アユミギャラリーに展示されている井上実の作品は...

アユミギャラリーに展示されている井上実の作品は、キャンバスという物質として与えられた四角いフレーム全体が、必ずしも空間として滑らかに繋がっていなくてもかまわない、という感覚によって構築されているように見える。通常(近代的な意味での絵画では)たとえ全く手がはいっていない「余白」の部分であっても、そこには描かれている部分と連続している空間が成立していなければならないことになっている。単純に言えば、例えばリー・ウーウァンの作品などで言われる、画面の隅にうたれたたったひとつの点が、それ以外の余白全てと同等の強さを持ち、拮抗していることで、画面全体に緊張が行き渡っている、とか、そういうことだ。つまりそれが、1枚の絵画の、作品としての統一性(全体性)を保証する。そうでなければ、1枚の絵は画面のどこを切って(トリミングして)もかまわないもの(つまり、今そうであるフレームが「任意」のものでしかないもの)となり、それは装飾的な模様か、せいぜいデザイン的な配置の問題となってしまい、一つの作品として、過不足無い「全体性」を成立させることは出来ない。その一方で、そのような「全体性=作品」という考え方への批判として、イメージの断片性の強調、その断片的なイメージのモンタージュ的な接合によ?てつくられる(ポストモダン的な)作品もあるし、また、(権利上)どこまでも果てしなく広がってゆくような(現にあるフレーミングが任意であることを強調するような)反復による作品(ヴィアラやウォーホルやライマンなど)もあるのだが、しかし、井上実の作品は、そのどちらでもないように見えるのだ。
●何も描かれていないキャンバスそのままであっても、それは(出来のよいものではないとしても)「絵画」であり得る、と、グリーンバーグが言わざるを得なかったほどに、あらかじめある「フレーム」(物質としてのキャンバスの広がりと限定)は「強い」のだ。絵を描くものにとっては、「描く」ことと「フレームが前もってある」こととの「調停」(というか「闘争」)は、常に大きな問題としてありつづけ、描くことそのものが、フレームの存在との「調停」のみで力尽きてしまうことさえしばしばある。(これを開き直って逆手にとったのがステラの初期作品だろう。)小林正人が、すでに張ってある(出来上がっている)キャンバスの上に描いたのでは、描くことがキャンバスを「消す」ことにしかならないから駄目だ、ということを言うのも、このような文脈においてだろう。「描くこと」、つまり空間を生成させることが、フレームとの「調停」に従属するのではなく、その生成そのもの(「描く力」そのもの)によって「作品」を成立させるためには、何らかのやり方でフレームの「権力(磁力)」を一旦外す必要がある。
●井上実の作品の過激さは、「描く」ことと「フレームの存在」との、何とも不思議な(力の抜けた、自由な感じのする)関係にあるように思える。それはまるで、あらかじめあるキャンバスの面積全部が、まるごと「作品」となる必要などなくて、何かが描かれた部分とその周辺に空間が成立していれば、四隅までぴっしりと空間が行き渡らなくても別にいいのじゃないか、空間が成立していないところでも、キャンバスの「物」としての質が視線をしっかり受け止めてくれるのだから、そこが作品としての「穴」になることもないし、とでも言うような、「自由」な感じがあるのだ。(つまり、感覚や意味として浮かび上がる「作品」そのものと、それを物質的に支える「支持体」とが。ぴたっと一致している必要なんかないんじゃないか、という感じ。)しかし、ことはそんなに単純なわけではない。
●ただ考え方として、フレームの四隅にまで空間が行き渡ってなくてもよい、とか、「作品」と「支持体」とがぴったり一致している必要はない、とか、思うことは簡単だが、実際にそのような「作品」をつくるのはむつかしい。例えば、キャンバスのある一部分に空間が行き渡っていない時、しかしそれは物質しとてはあくまでキャンバスの連続的な一部分であることは(視覚的に)誤摩化しようがないのだから、その部分も「空間」とは別の何ものかによって、他の部分と何かしらの緊密な関係性を持っていなければ、まさにただの余計な部分となってしまって、その作品を極めて脆弱なものにする。作品の「全体性」というものからは、そう簡単には逃げられないのだ。
井上実の今回の作品では、絵の具がキャンバスの地の部分の物質感と拮抗する程に厚く(物質的に)塗られている。この分厚い絵の具の物質感(および色彩)は、キャンバスの地のもつ物質感と密接な関係性をもつようにデリケートに調整されており、その物質的対比(および色彩の対比)は、それだけで一定の「ある感性」を感じさせる程の「質」をもち、それによって画面の統一性が生じ、作品の全体性は一応確保されている。このような「質」は、絵画的(空間的)であるよりも、工芸的、装飾的(物質的)なものであるのだが、このような次元で全体性が確保されているからこそ、空間的な意味で「穴」があったとしても、作品の全体性は保たれるのだと思う。工芸的、装飾的な次元で高い質を保っていることが、絵画的(空間的)なものの構築、つまり「描く」ことをフレームの束縛からある程度解放するのだ。井上実の作品の、不思議にズレた自由な感じが、たんにセンスよくズラす「感性」だけに頼ったものではなく、作品として高いレベルで実現しているのは、作品がこのように多層的に構築されているからなのだ。井上実の(成功した)作品においては、絵画的な「質」と工芸的、装飾的な「質」とが、とても複雑に絡み合っていて、複雑に絡んでいるから、その二つの「質」の「断層」が、「ここ」と指差せるようにではなく潜在的に横たわり、その(具体的にここという形では見えないがその存在は察知され得る)「断層」の存在がまた、その作品を見る者の視線をさらに活気づける。
●ここで間違ってはならないのは、言葉というのは「順番」に並べるしかないので、まず、工芸的、装飾的な質が確保された上で、その後に、描くこと(空間の生成)がなされるかのようにしか書けなかったのだが、当然、実際に制作する時は、この両者は「同時」に行われるしかないのだし、同時進行で徐々に形作られ、徐々に詰められてゆくしかない。このような制作過程(操作や制御)はとても複雑なはずで、実際、今回展示された作品は必ずしも全ての作品が成功しているわけではないと思う。ある作品では、絵の具の質(や色彩)の「練り」が足りなくて、絵の具がキャンバスにこびりついているだけに見えるし、ある作品では、ビジュアル的な「デザイン」にたより過ぎているように見えるし、また別の作品では、工芸的、装飾的な質を維持することで力尽きているようにも見える。
●今回の展示で何より新鮮なのは、その作品の個々の出来・不出来よりも、井上氏の「キャンバスの白い広がりと限定」に対する独自の捉え方(の感覚)で、その感覚に、ぼくは画家としてとても刺激されたのだった。