なびす画廊の日置英子・展

●なびす画廊で観た、日置英子・展について少し。日置氏の絵画作品は、キャンバスに、同一の大きさの小さな円形(まあ、普通ドットと言われるようなもの)を一つの単位とした半透明の絵の具のタッチが、無数に、規則的に並べられ、それが何層も重ねられることで、まるで磨りガラスを通してみた光景のような、あるいは、木々の葉が幾重にも重なる林のなかで上を見上げた時のような、光が滲み出してくるようなイメージが実現されている。このようなことは、絵を描いている人ならおそらく誰でも一度はやってみたくなることで、だから欲望として「正しい」と同時に「ありふれて」もいる。(で、こういう傾向は結構「受け」もよかったりする。)で、だいたいこういうことをやると、たんに視覚的な「効果」だけの薄っぺらな作品になりがちでもある。しかし、日置氏の作品にはそのような安易なものとは異なる一定の独自な質の高さが感じられた。その理由の一つは多分、キャンバスの地の白い色や質感に対する感覚が、制作の最初から最後まで「新鮮」なものとして持続しているからだと思う。「光が滲み出る」ようなイメージを絵画で実現しようとする時、その「光」の唯一の源泉はキャンバスの地の白であり、その表面が反射する光である。だから、その画面内部の白は、ただキャンバスの白のみである必要があり、その光=白を、絵の具の白によって代替しようとすると、そのとたんに光りが濁り、画面はたんに上っ面な視覚的効果へと堕落する。(これは絵を描く上で当たり前のことだが、一度絵の具を置いた場所に、後から、ここは「白い」方がよかったからといって白の絵の具をのせることは出来ない、というか、それは全く別の意味になってしまう。前にも書いたけど、絵画においては一度やったことを消す=削除することは出来ず、ただ、行為を付け足すことでその意味をかえることしか出来ない。)日置氏が画面に置く半透明な絵の具のタッチ(ドット)の一つ一つには、そのどれにもキャンバスの地の白との新鮮で緊張感をともなった関係が意識されており、だからこそ、最も絵の具が厚く重なり、明度が低くなった部分にさえも、その色彩には豊かに光が含まれているように感じられるのだと思う。(こういうのって本当に「実物」を観なければ分からないことで、例えばDMに印刷されている写真だけをみると、つまらない作品に思えてしまうのだった。)
●それと、画廊に同時に、同じ作家による全く異質なペンギンや子犬の絵が展示してある、というのがとても不思議な感じで、これはあえて異質なものをぶつける、そのことに意味がある、というのではなくて、こういうのが一緒にあっても別にいいじゃん、どっちも自分が描いたんだし、というような「緩さ」において共存していて、プレゼンテーションとして成功しているとは思えないけど、こういう「緩さ」は悪くないんじゃないかとも思った。