●ずっと気になっていたのに行きそびれていた、府中市美術館の「アメリカ-ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」展を最終日にやっと観ることができた。重い腰をあげることが出来たのは、こんな日に外へ出ないのはもったいないというくらいの、今日のなんとも素晴らしい天気のおかげで、府中市美術館はちょっと行きづらいような場所にあって(実際に行ってみればそんなことはないのだけど、感じとして)、よっぽど惹き付けられる企画でないとなかなか腰をあげられなくて、この展覧会は気にはなっていたのだが、「ナントカ美術館展」というのは、一応有名な作家の作品をあつめてはいても、その作家のたいして重要ではない(つまらない)作品ばかりということもしばしばあって、どうなんだろうと二の足を踏んでいたのだけど、とにかく天気が良いので出かけようという気持ちになったのだった。
●ぼくの住んでいるところから府中市美術館へ行くにはJRの武蔵小金井駅からバスに乗るわけだけど、天気のよい昼間のバスというのは素晴らしくて、バスというのは四方の壁全ての上半分くらいが窓になっているので、四方からふんだんに光が入り、その光が車内で交錯し、バスが移動し方向をかえるたびにその光も変化する。一番後ろの一段高くなっている席に座ると、バスの車内全体と、前の三方の窓からの景色とが見えるので、景色の変化と光の変化、そしてバスがゆったりと移動する感覚が丸ごと感じられるのだ。四方の窓から入った光が車内を明るく照らし、戯れ、複雑な影をつくり、三方の窓にはパノラマのように風景がひろがり、それが動き、そして、ガラス窓は車内の光景も反透明に映すので、車内が車外へと広がっているようでもあり、実際には閉じられた狭い車内が、おおきく外に開かれているような(外にいる以上の)開放感があるのだった。「天神町幼稚園前」というバス停でバスを降りて、天神町通りというまっすぐな道を歩いて美術館へ向かうのだけど、この、車の通行の少ない通りがまた良くて、建物がキツキツではなくゆったりとスペースを空けて建っていて、高い建物も少なく、通りがまっすぐにずっと先まで広がっていて、通る車も人も少なく、たまにジャージを着た中学生がチャリンコで通ったりするような道を、街路樹の葉がもうずいぶんと色づいているなあと思ったりしながら、その色を目にたっぷりとしみ込ませたりしながら、美術館へと向かって歩くのだった。
●美術館に作品を観に行くというのは、そこに着くまでの道のりが結構大変で、時間がかかったりする割に観られる作品はきわめて「地味」なものだったりするのだけど、逆に言えばその道のりを経るという段取りが重要で、そこに至るまでの過程が作品を観る時の「気分」の下地のようなものをつくっているとも言える。そのような意味で、美術館が建っている場所というのは、その美術館にとってとても重要な意味がある。「わざわざそこまで出かける」という感じが常にある府中市美術館の(実際にというよりも気持ちの上での)「行きづらさ」は、だから美術館にとって決して悪い条件ではなく、むしろ良いものではないかと思ったのだった。日曜日の美術館は、いかにも公園のなかにある公共施設という感じで人の行き来があって、閑散としているわけでもなく、人でごった返しているわけでもなく、しーんと静まり返ってもいないけど、うるさいというほどではなくて、とてもいい感じでざわざわしていた。美術館に限らず、美術作品を観られる環境が、普通にこんな風だったらいいのにと思えるような雰囲気だった。(イベントのようにして人を集めても、それは「祭り」としての意味しかなく、作品を観るのに良い環境とは言えない。美術作品は本来、そのような「祭り」とは対極にあるような、もっと穏やかな強さによって成立しているのだと思う。)展覧会の最後の展示室に、椅子とテーブルがあって、展覧会に出品されている作家の画集とかがいろいろ置いてあって、それを自由にみられるようになっているのとかも、凄くよいと思った。
●展覧会は、こぢんまりしているけど、内容の充実した、とても良いもので、最終日になってしまったけど、観られて本当に良かったと思えるものだった。戦後のアメリカ美術というのは、ぼくにとって美術に本格的にのめり込んだきっかけで、原点のようなものなのだけど、最近はちょっと色あせて感じられるようになってしまっていたのだが、やはりこれは魅力的なものなのだと、改めて感じることが出来た。ぼくが特に惹かれたのはフランケンサーラーの作品で、この人の作品を改めて纏めて観てみたいと強くおもった。誰かフランケンサーラーの回顧展を企画してくれるような学芸員とかいないのだろうか。(ホッパーとかも予想以上によかった。)
●実は今日はポルケも観たのだけど、ポルケなんてどうだっていいや、という感じだ。(ポルケって、印刷図版とかで観ると結構面白そうなのに、実物を観ると、あまりに「大味」過ぎる、という感じがする。)