府中市美術館の「アメリカ-ホイットニー美術館コレクションに見るア

●昨日観た、府中市美術館の「アメリカ-ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」展の作品について、ランダムにいくつか書く。
リキテンスタインというのは「画家」なんだなあ、と、その作品を実際に観るたびに思う。例えば、この展覧会では、リキテンスタインの作品は、ジャスパー・ジョーンズフランク・ステラの作品と並んで展示してあったのだが、絵の具を厚く重たく塗り重ねることしか出来ないジョーンズや、あらかじめ決まった形式によってしか作品をつくれないステラなどに比べ、リキテンスタインの作品は、形態や色彩の配置、それがつくり出す動き、空間の構築、等がずっと複雑で、きわめてオーソドックスな(あるいは古典的な)意味で「本格的な」画家なのだ、と感じる。(彩色されたブロンズの彫刻などからも、それは強く感じられる。)
ラウシェンバーグの作品を観ると、現代のヨーロッパの画家(まあ、例えばポルケだけど)は、イメージを重層化させるやり方、あるいは、イメージと物質の関係のさせ方という点で、全くラウシェンバーグを超えられていない、というか、そこに新しいものはなにも付け加えてはいない、という風に感じられる。(あるいは、リヒターはウォーホルやリキテンスタインを超えられていない、とか。)ただ、アメリカの作家は、大衆文化とか消費社会とかをモチーフに(レファランスに)するしかない貧しさとともにあるのに比べ、ヨーロッパの作家は、その膨大な文化的な厚み(歴史や神話など)という分厚いアーカイブをもっているという優位があるだけだ。しかしそれは逆に、作品がそのようなアーカイブ(作品に重たくまつわりつく様々な物語や言葉)に支えられ、それに寄りかからなければ成立させられないということで、作品そのものとしては(ハリボテのように)きわめて脆弱であるようにぼくには見える。例えばポルケの作品(あくまで今回日本に来ている作品に限ってのことだけど)は、あまりに大味で、やろうとすることは理解できるけどそれが上手くいっているとは思えない(つまり下手だ)し、第一、あの馬鹿げたサイズの大きさの必然性が分からない。
●ロスコの作品はやはり普通に「良い」と感じられる。ぼくは川村記念美術館のロスコ・ルームの作品を良いとは思えず、ロスコにしては退行的な作品だと思うのだが、ああいう作品ばかり観ていると、もしかしてロスコってつまらない作家なんじゃないか、と思えてきてしまうのだが、やはり普通のロスコは普通に良いのだ。
●ニューマンの彫刻は、これがステンレスという、不安定な、手で押せばベコッと凹んでしまうそうなやわらかな(しかも光沢も鈍い)物質でつくられていること、さらに、角が丸く処理されていること(ハードエッヂではないこと)がミソで、そのことが、単純な直方体の形態が、強い垂直性をもって屹立していながらも、同時に、周囲の空間ににじみ出すかのような曖昧なやわらかさの効果をも生んでいて、それはニューマンの絵画が示す感覚にもきわめて近い。
●(近代絵画マニアにとっては)ホッパーとかって、どうしても軽くみてしまいがちなところがあるのだけど、「ニューヨークの室内」はとても良い作品で驚いた。と言うか、ホッパーってもっとイラストっぽいのかと思っていたのだが、実物を観ると全然そんなことはなくて、良い画家なのだった。カタログの文章で、この作品について「窃視的」と書かれているけど、それはこの作品をただ図像的にしか観ていないからで、この作品の色彩や絵の具の感触のやわらかい親しさは、ロスコの色彩の親密さにも繋がるようなもので、この作品の視線は基本的にとても「親しげな」ものなのだと思う。この作品において、そのような「親しげな視線」に対して女性が背中を向けていること(「親しげな視線」を向けてくる存在に気がついていないらしいこと)が、ある種の「孤独」(世界から切り離されているような感じ)といってもいいような感覚を生んでいるのであって、それは「窃視的」というのとはちょっと違うのではないか。(視覚的な表現をすぐに「窃視」と結びつけるのはあまりに「映像的」で、絵の具という物質を「こね回して」つくる絵画には、そのままの形ではあてはまらないと思う。)
フィリップ・ガストンの作品は地味だし、飛び抜けたところはないのだけど、とてもしみじみと良い絵画で、こういう絵があることによって「絵画」というメディウムが支えられているのだと、つくづく思う。こういう、当たり前に「良い絵」、当たり前に「良い画家」っていう存在が、現在、世界的に困難になってしまっている。比べるのは何だけど、ハンス・ホフマンは、教育者としては偉大だけど、画家としてはイマイチで、やろうとしていることは面白いし、理解出来るのだけど、それが十分には上手くいってなくて、つまり下手だと思う。
●ミルトン・エイブリーの絵は、最近日本で流行っている絵のある種の傾向(小山登美夫系というのか、杉戸洋みたいな)の絵のルーツみたいな感じで、でもやっぱ、オリジナル(つまりミルトン・エイブリー)の方がずっと良い。
●この展覧会でぼくがもっとも長い時間その前にいたのは、ヘレン・フランケンサーラーの「アーデン」という絵だった。フランケンサーラーは、下地をつくっていない生のキャンバスに絵の具をしみ込ませて描く技法を発明したとも言える、抽象表現主義の代表的な女性作家で、この技法は、まさに抽象表現主義の「感性」を代表するとも言っていいものだと思う。しかしフランケンサーラーは、ポロックやニューマン、ロスコのように、まったく新しいスタイルを確立したわけではないし、ほとんど同様の手法を使うモーリス・ルイスほどは、形式的に厳密ではない。ぶっちゃけて言えば、彼女の絵はほとんど彼女自身の感覚のみをその根拠としているようなところがあって、だから出来不出来の差が激しいのだが、その分「古びる」感じもなく、こちらの感覚をダイレクトに掴み、揺さぶるような感じがあるのだ。(とは言っても、ぼくはいままでにフランケンサーラーの作品を実際には数点しか観たことは無く、画集とか印刷された図版で観ているだけなのだが。)
とにかく、この「アーデン」という作品の前に立つと、からだじゅうの様々な感覚が、ざわざわと波だちはじめる。ぼくはそれを「目」によって見ているのだけど、目から入った感覚が、体中の様々な感覚と直接結びついて、波立ち、動き出す。目が見ているのは、キャンバスにしみ込む絵の具のつくり出す、色彩の多様なニュアンス(と、その揺れ)であり、色彩の配置によるリズムや響きであり、絵の具の流れがかたちづくる形態や「動き」の感覚であり、そして物質としての絵の具が物質としてのキャンバスにしみ込んでゆく感触の様々なニュアンスであるのだが、それら全てが同時に、あるいは切り替わりつつ断続的に感覚にもたらされることで、からだの芯を掴まれ、ぐらぐらと揺すられるような感じになる。(このような、フランケンサーラーによる繊細で、かつ、やわらかく、流動的に「動いて」ゆくような作品を見た後に、ポルケを見たので、その作品がことさら、粗野で、大げさで、重ったるくて、硬直したものに見えてしまったのかもしれないけど。)