『銀河ヒッチハイク・ガイド』(1)

●粒が細かく、舞うようにして降ってくるので、大した降りではないのに、傘をさしていても知らぬ間にじっとりと濡れてきてしまうような雨のなかを、用事があって、新宿の都庁周辺の巨大なビル群を歩く。
●『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテレビ・シリーズのDVDのパート1(最初の3話分)を、半ば酔っぱらいながら、ぼうっと観ていた。(この作品については、「ここ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89)」を参照してください。)ひねり過ぎてるせいで笑えない小ネタを、起伏もリズムもなくだらっと並べた感じで、観ていて、面白いのか面白くないのかよく分からなくなってくるところが、面白い、と言えば言える。しかし、こういうものこそ、一度ハマってしまうとディープにハマるのだろうと思えるような、細部の充実(と言うか、広がりの「予感」のようなもの)と独自の雰囲気がある。ネタの、ネタとしての新鮮さが見失われてしまうほどに、ひねりを加えられたネタと、状況にただひたすら流されるしかないというような無力感とが、ある種の「成熟」(それは行き詰まってただ腐るのを待っている「時間」という意味でもあるのだが)を感じさせる。成熟というのは「洗練」とはまったく違った事柄で、洗練されてしまうと消えてしまう贅肉のようなものこそが「成熟」なのだというようなことを、教えてくれる。(このドラマの「世界観」は、理屈っぽくてもってまわったようなシニカルさということで説明出来てしまうかもしれないけど、このドラマから漂っている「雰囲気」というか感触は、それだけでは説明できないように思う。)
ところで、このドラマは、はじまってすぐに「地球滅亡まであと何分」というようなことになっていて、地球人たちはそれに対して抵抗したりジタバタしたりする余裕すら全くあたえられずに、いともあっさりと(しかも極めて「官僚的」な理由に基づく圧倒的に「強大な力」によって)地球は爆破され、跡形も無く消え去ってしまうのだ。この、チープな特殊撮影によって示される、あまりにあっけない地球の消滅を観せられると、ああ、こういうことも「普通にあり得る」のだなあ、という、何とも不思議な感情に襲われる。ここには、(「物語」は勿論のこと)皮肉や無力感さえ発生する隙間のないあっけなさがあり、そのあっけなさは、我々に感情から引き剥がされた「認識」を強いる。人類が、と言うよりも地球全体が、恐ろしく長い時間をかけて行って来た営為の全てが、全て跡形も無く一瞬で消え去ってしのうことも「普通に」あり得るのだ。(これは別に「地球」に限らず、我々が無意識に「長期に渡って安定している」と信じ、「地盤」としている事柄全てにあてはまる。)そのような認識を抱きつつも、同時に一方で、人間は、人間同士の卑小な軋轢というような人間的な現実(や感情)という小さな世界のなかを、それを「地盤」として(それが永遠であるかのように信じて)生きてもいる(生きるしかない、それこそがリアルである)のだ。これは、何とも不思議なことのように思える。