ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』

ジム・ジャームッシュコーヒー&シガレッツ』をDVDで。
●考えてみれば、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の面白さは、それが、物語によってでも構造によってでもなく、それぞれの「場面」の力のみによって成り立っており、個々の場面がただ並列されているように配置されていたことにこそあったように思う。ここで言う「物語」とは、あらすじに要約出来るようないわゆる物語という意味だけでなく、映画が、始まりから終わりまで「順番」に繋がっていることによって生じる流れや因果関係の展開のことで、例えば、りんごのショットがあり、空のショットがそれに続き、次に木々のショットがあれば、それぞれが関係づけられ、赤→青→緑という展開=物語が生じるのであって、青→緑→赤という展開=物語とは別の意味をもつ。(このような展開=因果関係=物語が読み取られる時、りんごのショットにおける「りんご」の存在の感触は、どうしてもやや後退せざるを得ない。)
●物語と場面との違いは、とりあえずは時間と空間との違いという風に言い換えられるかもしれない。場面とはつまり、具体的な場所が与えられ、そこに特定の人物がいて、人や物がどのように動き、そこで何が起きるか、というようなことだ。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』において、それぞれの場面は、物語の一部分(一要素)であったり、それ自身が小さな物語(つまり「寸劇」)であったりする前に、たんに「場面」であり、その時、そこで、そうだった、ということのみが簡潔に示される。そのような複数の場面が、場面と場面の間に挟まれる「黒いショット」によって分離され、分離されつつも繋がれて、並べられる。この時、個々の場面は、時間的(順番に)に繋げられるというよりも、黒い紙の上に写真が空間的に配置されるような感じで、時間(展開)が希薄になる。その後、ジャームッシュ自身は、このような時間(単線的な展開)の希薄化を、場面の力の充実によってと言うよりも、物語を制御する「時制」を複雑化することによって押し進めようとした。(『ミステリートレイン』や『ナイト・オン・ザ・プラネット』など。)しかしそれは、単線的な展開とは別種のものではあっても、物語的な強い「拘束」が「場面」を縛ってしまうことになる。
●『コーヒー&シガレッツ』は、きわめてシンプルに「場面」だけで映画を成立させようとする試みだと思う。場面は、場所と人と物とで成り立っていて、それらは不可分である。その人物が、そのようにふるまい、そのようなことを喋るのは、その場所にいるからで、それは、その場所には、その場所にいるべき人物がいて、その場所にあるべき物があり、その場所でなされるべき営みがある、ということでもある。
この映画は、タバコやコーヒーが好きな人にとってはむしろ不快な映画かもしれない。多くの場面において、登場人物はタバコやコーヒーを極めて粗雑に、乱暴に扱うし、それはちっとも「美味し」そうに見えない。人物たちの多くは、タバコやコーヒーを楽しんでいるのではなく、たんに粗暴に消費しているに過ぎないし、たんにニコチン中毒でありカフェイン中毒であるだろう。人物たちにとって、タバコやコーヒーは「楽しむ」ものというよりも、形骸化した日常的な習慣のひとつでしかない。しかしだからこそ、人物たちとタバコやコーヒーは不可分なものであり(人物の存在のあり様と、そのタバコやコーヒーの粗雑な「扱い方」とは不可分であり)、そしてまたそれは、人物の存在している環境=空間とも不可分なものなのだ。「場面」とは、それらが一体になったものとしてあり、だから、その場面のなかにある(タバコやコーヒーに代表される)様々な物は、物語の上で機能する「小道具」のようには、場面から切り離すことが出来ない。
●この映画にはロングショットがなく、せいぜいが人物の全身をフレームに納める程度に引いたショットがあるだけで、そのようなショットも空間全体(人物のいる「店」全体の様子)を示すことはなく、その人物のいる「一画」を示すのみである。(店全体を示すかわりに、テーブル全体を示す俯瞰ショットがあるのかもしれない。)にも関わらず、この映画のあらゆるショットからは、登場人物が今居る場所の「空気」が濃厚に漂っている。つまりどのショットも、その時、その人物のいる、その場所でしか撮ることの出来ないようなショットのように見える。この映画では、人物同士の会話は基本的に人物の顔を中心とした構図のショットでの切り返しによって示されるのだが、そのようなショットも、「人物の顔」のショットというよりも、人物の頭部周辺の空間=空気を捉えたショットという感じで、あくまで「空間のなかにいる人物」として捉えられているから、その空間の空気が濃厚に前に出てくるように感じられる。
●場面を構成するのは、場所と人物の関係であり、場所と物との関係であり、場所のなかでの、人物と人物、人物と物との関係であり、そこで起きる出来事である。場面において、因果関係は空間的なひろがりとしてあり、時間の流れも、空間的な展開としてあらわれる。しかしそのような「場面」も、時間に沿って複数繋ぎあわされると、ある場面と別の場面との間に単線的な展開による関係(前と後)とが生じ、それは時間的な展開となって「物語」を発生させ、物語的因果関係は人の頭(認識)を強く拘束するから、空間的な展開としての「場面」を押しつぶしてしまいがちであろう。
●『コーヒー&シガレッツ』では、場面を場面そのものとしてだけ見せるために、つまり、場面の積み重ねが時間的(単線的)な展開とならないように、一つのエピソードが一つの場面しか持たず、場面がかわるとエピソードも人物も別のものへと移ってしまうようにできている。(しかし、それぞれのエピソードの間に、時にあからさまな、ときにゆるやかな、「響き合い」のようなものはある。)このことによって、複数の場面は、展開するのではなく「地層」のように積み重ねられ、観客の頭のなかに降り積もるような厚みとして残ってゆく。この感じは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を観ている時の感じととても近いように思う。しかし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と同じくらい良い作品かと言えばそこまでは言えなくて、それは、エピソードがどうしても、「良く纏まった(ちょっと気の効いた)寸劇」のようなものになりがちであることや、出演している有名人たちの「名前」や「顔」に頼り過ぎているようなところが「弱い」ように感じられるからだ。(最後の、テイラー・ミードとビル・ライスの場面=エピソードは素晴らしいと思った。)