『インストール』(綿矢りさ)

●『インストール』(綿矢りさ)を読んで、16、7歳でこんなのが書けてしまうのか、と驚いたのだけど、では、面白いのかと言えば、そんなには面白くない。どちらというとぼくには、「お話」として上手く纏まっている『インストール』よりも、『蹴りたい背中』の混濁した感じの方が面白く思える。しかし、『インストール』と『蹴りたい背中』とは、姉妹編のように繋がっているとは思う。
●『インストール』は、女子高生、不登校、エロチャットなど、いかにもイマドキ風の風俗をこれみよがしに示しているように見えて、しかし、本当に描きたいのはそこじゃないんだ、と、さらりと身をかわす、その身のこなしと言うか「ギャップ」によって人を惹き付けるのだと思う。そのような「ギャップ」のテクニックは小説のなかにいくつもみられて、例えば、主人公の女の子は、エロチャットをしながらの内省で《一つHな言葉を書くたびに、下半身が熱くたぎって崩れ落ちそうになり、パンツが湿った。》というようなエロ小説みたいな言葉を当たり前のようにさらっと発してドキッとさせつつも、もう一方では「スカトロ」の意味すら知らないというカマトトぶりをみせる。このようなギャップの塩梅が、読者への媚態として有効に機能している。しかし、このようなある種の「オヤジ転がし」的な媚態は、あくまでも読者(十代の作家にとって、読者の大部分が「年上」であることが想定されるだろう)に対する媚態であり、主人公が作中で実際に関係しているのは、このような媚びが通用しない年下の人物(小学生かずよし)である。このませた小学生は、パソコンの知識、性的な知識、エロチャットの腕前などにおいて、主人公の女子高生を上回っており(主人公は小学生に「巻き込まれる」のみで)、主人公はこの少年に「頼って」いるのだが、とは言っても相手は小学生であり、この二人の関係において主人公は少年に対して常に優位な位置をキープしている。(女の子が少年に対して「緊張」する必要のある局面はない。つまり少年は主人公にとって、きわめて都合のいい「年下の男」である。)だから、主人公の少女は、読者に対して巧みにオヤジ転がし的な技巧を駆使して誘惑しつつ、同時に、年下の男に「頼り」、しかもその関係の優位性は譲らないということになる。
●ぼくが『インストール』を読んでいて一番生々しく感じたのは、小学生「かずよし」の継母の存在だった。こんな継母がいたら、男の子としては相当にきついだろうなあ、と思いながら読んでいた。そのような、継母や小学生のリアルさに比べると、主人公の女子高生は、いまひとつ明確な像は結ばない感じで、いかにも「小説のために(あまりに上手く)つくられた人物」という感じに思える。
●『インストール』の主人公は自らを「不器用」だと規定し、自覚的に「道化」を演じているような気配がある。(一人称の語り手=主人公の、自分自身に対する距離感と言うか、対象化の具合の巧みさが、この作家の天性の資質を感じさせる。つまり、実際には不器用どころか、自分自身の「魅力」の「使用法」を良く知っているのだ。)対して、『蹴りたい背中』の主人公の不器用さは、『インストール』よりさらに増幅されているにも関わらず、主人公は自らの不器用さに対してそれ程自覚的ではない(意識的に「自覚的ではない」とみえるように書かれている)ように感じられる。この「自覚的/自覚的ではない」という、主人公の自分自身に対する視線の違いが、『インストール』と『蹴りたい背中』の違いのように思える。『蹴りたい背中』の主人公は、自らの不器用さ=痛さに対して無自覚であり(無自覚であるかのように装っており)、その不器用さによって醸し出される「媚態(性的な磁力)」に関しても無自覚で(あるいは、しらばっくれて)いる。あからさまに性的な磁力を発しているにも関わらず、それを発している当人は無自覚である(かのように装っている)。この点が、あくまでさわやかな印象と共にある『インストール?と異なって、『蹴りたい背中』が、やや混濁したような、不潔な感じをもたらす原因だと思う。『蹴りたい背中』での主人公とにな川の関係は、『インストール』の主人公と小学生との関係の反復であり、バリエーションであるように思われるが、相手に対する優位を保ちつつも、同時に依存しているような関係のあり様が、『蹴りたい背中』の方がより細かく、そして深くまで追求されていて、だから、主人公の存在が生々しく感じられるように思う。
●文庫版『インストール』には、デビュー作(『インストール』)と、最新作(『You can keep it.』)が収録されているのだが、ぼくは断然最新作の方が良いと思うし、比べて読んでみれば、この作家の飛躍が感じられると思う。(最新作については、13日の日記に書いてます。)
(追記。主人公が17歳の女子校生で、さらに、それを書いた作家がほぼそれと重なるような年齢、性別である時、その小説に主人公の内省として《まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う...》とかいう文が書かれる時、そこには二重の意味が(それを読む「男性」に対して)生まれる。一方でそれは、「処女」であることをあけすけに明かしてしまうような大胆さ=挑発性としてあり、しかし同時に、性的に保守的な感覚を持つ「おっさん」たちに、「あ、処女なんだ」という安心感のようなものを与える効果をもつ。『インストール』における「巧みな媚態」とは、そのような二重性の効果によって生み出されている。つまりそれは、「おっさん」の価値観を揺るがさない程度に挑発する。それに対して『You can keep it.』が圧倒的に良いのは、そのような「媚態」に一切寄りかからずに(つまり「おっさん」からの視線を意識せずに)作品が成立しているということだ。)