マイケル・フリードと綿矢りさ

マイケル・フリードミニマリズムの作品に対する批判は、ミニマリズムの作品が「観者」に対して存在していること、つまり、作品が、観者(の身体)への(直接的な)「効果」によって組み立てられていること、への批判でもあった。対して、フリードが良いとするモダニズムの作品は、作品はそれ自体の秩序に従って(それを「観る者」に対してではなく)組み立てられていて、つまり「作品」として「閉じて」いて、観者による「作品を読む」という働きかけによってはじめて開かれる。(作品は、他者に向かって自らを積極的にアピールすることなく、自ら閉じて、ひっそりと、読まれるのを「待って」いる。つまり作品はいつも、「読まれる(かもしれない)可能性」として存在している。)ここで言われているのは、作品は、作品として「閉じる」ことによって逆に、世界(現実)の内部に存在出来、世界(現実)に対して「開かれる」ということではないだろうか。作品が「観者」に対しての「効果」として組み立てられる場合、それはどうしても「在る特定の観者」あるいは「一般化された観者」を想定して、その「効果」を計算してつくられるしかない。(だがそれは結局、「一般化された観者」に向けたものとなろう。)その時作品は、事前に想定出来る誰か(観者)という範囲内に押し込められ、「想定出来る誰か」によって縛られ、あらかじめ方向付けられている。つまりその時に作品は、「事前に想定出来る(一般化された)誰か」に対して存在しているのであって、「世界(現実)」に対して存在しているのではない。対して、作品として「閉じて」ある作品は、誰かに対してではなく(物のように)それ自体として存在していて、だからこそ人は、それに対して(それぞれが自らのスタンスで)働きかけ、それを読み、それと同調したりそれに反発したりすることが出来、それを通じてそれぞれの「観者」自身が、「想定の範囲内」からわずかなりとも外へとはみ出すということも、起こるかもしれない、というわけだ。(とは言え、作品をつくることを含め、人のすることは何でも、結局は何かしら他者に対する呼びかけや叫びといった側面を持つものだと思われ、だから、それ自身として「閉じている」ような作品をつくるには(それを信じるには)、抽象的な「誰か」、誰でもない誰かとしての「想像的な他者」という超越的な審級への「信仰」が必要であろう。ここでぼくが「世界(現実)」と書いている言葉の本当の意味も、「想像的な(超越的な)他者」ということなのかもしれないのだ。)
綿矢りさについて書きながら考えていたのが上述したようなことで、例えば、小説の登場人物が「読者に対して(読者に対する効果として)存在している」ことと、「その人物そのものとして存在している」こととの違い、というようなことだ。小説の登場人物が、読者の目を意識するのではなく、あくまで自分自身の都合で、自分勝手に動いてゆくことでこそ、小説は「開かれる」のではないか、と。『インストール』の主人公やその内省として繰り出される言葉は、多分に読者からの視線を意識し、その視線に対する「効果」を意識したものとしてあり、その意識的なパフォーマンスの巧みさによって、『インストール』は優れた作品であり、多くの読者から受け入れられたのだろうけど、しかし意識的なパフォーマンスの届く範囲は(それが「数」としていかに膨大なものであれ)、作家綿矢りさの「想定の範囲内」を超えることはなく、小説や読者、そして作家自身をも「開く」ものではないように思う。その点、『You can keep it.』の登場人物たちは、読者の方を見て(意識して)いなくて、それぞれが勝手な方向を向いていて、そのことが作品を「作品」として強くしているように思う。