●『小説の自由』の刊行にあわせて今年の夏に青山ブックセンターで行われた、小島信夫×保坂和志トークショーの模様を録音したCD-Rをいただき、それをiPodに入れて、一日じゅうくり返して聞いていた。この対談の「内容」についてなら、「考える人」という雑誌に載っている記事だけで充分だし(ぼくはそれを以前に読んでいた)、むしろ、こんなに茫洋とした、掴みどころのない話の流れを、よくも手際良く纏めたものだという感じで、その記事を読む方が、実際に喋られた録音を聞くよりも「内容」が分かりやすいくらいだろう。しかし、このトークショーの凄さは、決して内容として要約出来るようなものではなくて、二時間続くこのトークの後半での小島信夫の喋りまくりのその「喋り」にこそあるのだった。ここで小島氏が喋っていることの(要約可能な)内容はと言えば、小説はきちんとしたプロットよりも横道に逸れることが重要だとか、小説を書くためには誰でもが「書きあぐね」ているのだとかいったことで、そのような事は決して耳に新しいものではないだろう。(だから、残念ながら「考える人」の記事からだけでは、このトークショーの(「録音されたもの」からは感じられる)小島信夫の喋りの凄さはほとんど伝わってこない。)しかし、小島氏の、時にどこへ向かっているのか分からなくなるような、時に、何を言っているのかさえもよく分からない「喋り」が伝えてくるものは、そのような要約可能な「内容」とはまた別の、もっと混濁した何かで、それを小島信夫の「存在」の厚みだと言ってしまうのもまた、あまりに単純化しすぎている。それはもっと、その場や、その時間と密接に関係したものだとも思われる。それは、小島氏の観客に対して(観客を意識した)パフォーマンスとしてではなく、その凄さは、小島信夫小島信夫であることの凄さによるものだと思うのだけど、しかしその凄さはまた、その時、その場で、その観客を前にしていたことで引き出された凄さであると感じられた。この対談の前半部分と言うか、滑り出しの部分は、話がどこへ向かってゆくのか、何についての話になるのかといった軸がよく見えず、観客はなんとなくシラーっとしていて、その感じを小島氏や保坂氏も感じていて、この状況をどうしようかと探っている気配が(録音されたものからも)感じられるのだが、そのようなシラーっとした場面でも、観客が、話をしている二人と同等なくらいに、その話に注意深く耳を傾け、その先の方向や行方を探っているという雰囲気があったからこそ(つまり、小島氏や保坂氏に対する敬意がその場にあったからこそ)、後半の小島氏の素晴らしい喋りが実現されたように思われる。とっ散らかって「困った」雰囲気(「喋りあぐね」ている雰囲気)の前半が「下地」となったからこそ、後半の小島氏の喋りが実現されたのだろうし、観客もまたその「下地」によって、小島氏の「喋り」から多くのものを聞き取ることが可能になるのだと思う。そして、そのようなトークショーの流れや進み行きそのものが、ここで小島氏や保坂氏が語っている「小説」のあり様と重なってもいる。そのような進み行きはおそらく、(括弧付きの)「観客」に対する効果やサービスを意識したパフォーマンスではあり得ず、しかしまた、観客の存在を無視した状態でもあり得ず、小島氏があくまで小島信夫として、(一人一人のそれぞれがその人であるものとしての)観客を前にして喋っているからこそ、あり得たことなのだろう。作品が「作品」として完結しているのではなく、世界に向かって開かれている必要がある、などということを言葉で言うのは簡単だが、具体的にそれがどういうことであるのか、ということを、このトークショーでの小島信夫の「喋り」(の録音)は教えてくれていると思う。