『地の果て 至上の時』(中上健次)を半分ほど

●『地の果て 至上の時』(中上健次)を半分ほど(第二章まで)久しぶりに読み返してみて、この小説の「大きさ」に圧倒される。この「大きさ」とはいわば「空っぽな空間」の大きさのことで、この小説はつまり、巨大ながらんどうのなかに、様々な位相の物語が放り込まれ、それらが互いに干渉し合いつつ響き合っていて、ざわざわとざわめいたり、擦り合わされて軋む音をたてていたり、大きくうねったりしているような小説なのではないか。そしてこの巨大な「がらんどう」とはつまり秋幸のことで、だから秋幸は、様々な物語への同調と拒絶の度合いや、その間の揺れ動く運動としてしか存在していなくて、何かしらの積極的な主体性や内面性を強く保有しているわけではない。
●この小説を図式的に捉えれば、一方に女達の存在によって担われている、母権的、共同体的、想像的な物語の磁場があり、もう一方に、男たちによる、父権的、象徴的、あるいは、資本主義的(経済的、歴史的)な物語の磁場があり、そのどちらにも属さないものとしての自然=環境(光の強さや緑の濃さ、そしていつも吹いている風、あるいは六さんのような存在)があり、そられが重なり合い、反発し合い、擦り合わされ、響き(唸り)合っている、ということになる。しかし、母権的な物語の磁場と言っても、例えばオリュウノオバのような、それを統一するような超越的な視点は存在せず、フサ、美恵、さと子、ユキ、モン(とりあえず、焦点化された人物としてのモンの存在が、いわはそれらが行き交う交差点のような役割を担ってはいるが)などのそれぞれの存在によって示される、それぞれの異なる視点、異なるニュアンスの物語がズレをもちつつ併置されているし、父権的な物語の磁場においても、浜村龍造という存在は絶対的なものではなく、その背後にはさらに大きなものとしての「佐倉」の存在があるし、その佐倉にしたところで、日本全体を覆う「バブル経済」という構造の端末に過ぎないし、同級生である友永、義父の竹原などに比べて「比較的(相対的)」に大きな存在でしかない。そして、龍造は、「佐倉」的なもの(資本主義的な構造)とつながっている一方で、シャブ中毒のヨシ兄的な「(偽の歴史への)妄想=物語」とも繋がっていて、だから龍造は既に絶対的な「謎」ではなく、佐倉的なものとヨシ兄的なものの中間に結像する仮像のようなものに過ぎないとも言える。実際に「路地」を消滅させてしまったのは、歴史的、政治的、経済的な諸々の力の流れであり、路地(想像的、共同体的なもの)を消滅させてしまいたいという龍造や佐倉の「(父権的、象徴的な)意思」ではない。しかしこの小説は、(例えば柄谷行人が言うような)母権的なものにしろ父権的なものにしろ、物語の成立をなし崩しにしてしまうような「ポストモダンな現実」が描かれているというだけでなく、やはり(「路地」が無くなってしまったことで可能になった)「路地」の物語でもあるように感じられる。
●この小説は、特権的なものとしての「父」も「母」成立出来なくなった環境で、もはや(想像的なものとしても、象徴的なものとしても)全体を構成出来なくなって破片となった物語が、全体という統制が外れたことで様々な場所から沸き立つように溢れ出て、それらがざわつき、擦り合わされ、血を流し、うねっているような小説なのだと思う。そのような意味で、例えば「冷戦崩壊後の世界」を予言していると言えなくもないけど、この小説の凄さはそのような「予言」性にあるというより、あくまで、ざわめき、うねるものたちの雑多さ強さや大きさに(そして、そのようなものたちがうずまく「場」の設立に)こそあるように思う。しかし、ではこの小説が、様々なざわめくものたちが水平的に併置されるポリフォニックな小説なのかと言えば、そうとは言えず、この、無数のざわめくものたちは、最終的には秋幸という「からっぽな器」=主体によって引き受けられ、梱包されることで、統制されているように思う。この小説で秋幸はほとんど「違う」ということしか言っていないようにも思えるが、からっぽな器である秋幸は、「違う」ということによってのみ辛うじて主体化される。(この小説を古くさいと感じるところがあるとすれば、秋幸という主人公の設定があまりに「劇的」というか「特別」過ぎるところで、例えば秋幸は、父にとっても母にとっても特別な、たった一人の選ばれた息子で、だから妹を犯し、弟を殺しても、父からも母からもすんなりと許され、受け入れられてしまうし、同年代の者たちからも「隊長」とか呼ばれて一目置かれ、いつもエラそうに子分を連れて闊歩し、子分を顎で使っているし、身体も強く、ケンカも強く、そして金持ちのボンボンでもある。秋幸は、内省的には、優しく、染まりやすく、むしろ気が弱いとさえ言えるところもあるのに、外側から与えられた「属性」としてはあくまでマッチョで、この落差にちょっと「文学」臭さを感じてしまう。)