一昨日の日記で、ストローブ=ユイレの...

●一昨日の日記で、ストローブ=ユイレの『セザンヌ』について、絵画と映像の混じり合わなさを露呈させるような映画だ、ということを書いたのだけど、(ルノアールの映画が引用されている部分の前後なんかを)ちょっと見直してみて、そのような言い方は安易だったかも知れないと思った。例えば、セザンヌの描いたサントヴィクトワール山と、実写で示されたサントヴィクトワール山のイメージとでは、あきらかな断絶がみられることは確かなのだが、しかしそれが共に、実在するサントヴィクトワール山に由来している以上(そこから出て来たものである以上)、そこには何かしらの(見えない、あるいは、見えにくい)繋がりがあるはずで、その繋がりを、ほとんど「霊視」するようにして「感知しろ」というとてつもない要求を観客に対してつきつけているのが、この映画なのではないかと思った。さらに例えば、セザンヌ自身がその作品とフロベールとの関係について語っている『ロザリオをもつ老婆』という絵と、フロベールを原作としてもつルノアールの『ボヴァリー夫人』という映画(の一場面)とは、一見繋がらなさそうにみえるのだが、それらのどちらにもフロベールが関係している以上、何かしらの関係が生じているはずで、それをよく見て「感知せよ」と要求し、さらに、セザンヌの絵そのもの(の映像)と、セザンヌ自身の映像(セザンヌが絵を描いているところを撮った写真)とは別物だとしても、しかし、その絵(映画が示しているのは絵そのものではなく、絵の映像でしかないのだが)はそこに写っている身体(その写真はまさに「描いている」身体を撮ったものだし)から生み出されたものなのだから、そこにも何かしら繋がりがあるはずで、その繋がりを感知せよ、と要求する、といった具合に。