金原ひとみ『蛇にピアス』

金原ひとみ蛇にピアス』。この小説は「ある意味」凄い。この徹底した語彙の貧しさというか、紋切り型の独自の使い方は、中原昌也まであと一歩という感じだ。この小説は簡単に(乱暴に)言ってしまえば、ギャングもパンクもギャル系の女の子が好き、という話だとも言えて、それはぼくが若い頃に言われていた、ツッパリ(ヤンキー)も結局サーファー系の女の子が好き、というのとかわらない。だからセンスとしては横浜銀蝿(「お前サラサラサーファーガール、おいらテカテカロックンローラー」)みたいで、人物は単純な属性(パンクとかギャルとか)のみによって把握されているかのようだ。(平気で「パンクなのに癒し系」とか書かれている。)お話としても、主人公の十代の女の子が、一方で同世代の男の子と「身の丈に合った」カップルとなって生活していて、しかしもう一方で同時に、得体の知れないもの(危険な匂い)を感じさせる年上の男にも惹かれて関係している、という話で、驚くほどありふれている。
語彙の貧しさや紋切り型的表現の強引な使用、そして、登場人物たちの認識・思考パターン、行動パターンの単純さ(選択肢の貧しさ)をみると、この小説全体が、極めて限定された「貧しい要素」だけを使ってどのように小説を成り立たせるか、という問いとして成り立っているようにみえる。そしてこの「貧しさ」にこそ、この小説のリアリティが賭けられているように思う。つまりこの小説の貧しさは、この小説に描かれているような人物の貧しさと、ほぼ、そのまま重なりあうのではないか。この小説は、言葉だけでなく行動までふくめたものとしての「表現のための資源」をあまりに少ししか持たない人のための物語なのだ。そのような人たちは、どんなに繊細なことを感じていたとしても、どんなに複雑な情動に染められていたとしても、それを「表現」する(ここで言う「表現」とは、必ずしも他者へ向けられたものだけではなく、自分が自分自身と関係するときに必要なある「形態」のようなもののことでもある)ための語彙があまりに限られているので、結果として、外からみると(そしておそらく内側からみた自分自身でさえも)、複雑な内面や感受性など持ち合わせない、何も考えてもいないし感じてもいない人物であるかのようにしてしか現れない。しかしそれは、そのような人物が「バカ」だということではなく、表現のための「資源」があまりも貧しいことによる「効果」でしかないのではないか。ここには、内実と表現の間に著しい不均衡が生まれていて、その不均衡による軋みは、表現されて形になることのないまま蓄積されてゆき、しかしその蓄積された軋みもまた、貧しい語彙によって紋切り型の(極端な)形式をとることよってしか顕在化(回帰)出来ない。この小説は、そこにある「軋み」こそを聴き取ろうとしているように思える。そしてその「軋み」を、「紋切り型」の語彙のみを組み合わせることで(「貧しい者」のリアリティによって)何とか「顕在化」させようとしているようにみえる。(斉藤環の言う「ヤンキー文学」の可能性とは、そのような意味なのではないか。)この小説の主人公にとって、スプリットタンやボディピアス、タトゥーなどの身体に対する直接的な介入や改変は、この人物が自分自身を支えるための固有の(内実のある)幻想の形態であるのではなく、まさに「軋み」の蓄積がまとった(「ギャル」系なんかとかわりのない)「紋切り型」の表層的な形態=表現としてあらわれている。だからこれらは、特定の男性との関係のなかでのみ意味を持ち、男性が消えてしまった後は、スプリットタンへの情熱も消えてしまう。しかし、同時にそれが、身体への直接的な(不可逆的な)介入であるということにも一定の意味があり、そこに込められた固有の「音質」は聴き取られる必要があるだろう。この小説において、個々の「表現の要素」が、あまりに紋切り型だったり、深さを欠いた交換可能なものでしかなかったりすることを批判しても意味がない。
●しかし、この小説だけでなく、最近小説を読んでいていつも強く感じてしまうのは、何故小説は、自らをそんなにも性急に「小説として」回収してしまおうとするのだろうか、ということだ。この小説も、読んでいる途中では、「ある意味凄い」とか「中原昌也みたいだ」とか「何だこの会話は」とか思いながら、居心地の悪い感触を(面白さ)感じつつ読んでいるのだが、読み終わってしまうと、何か、語彙は幼稚だけど、まあまあ上手く纏まった小説(お話)、みたいに思えてきてしまう。(そういう風に書かなければ新人賞を通らない、ということなのかもしれないけど。)