『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド)

●『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド)を、ようやくDVDで観た。途中までは、ほぼ完璧な「アメリカ映画」として、何の疑問もなく素晴らしく、イーストトウッドはやっぱすげえ、とか思って、ただただ受け入れて堪能していた。特に、イーストウッドが自分自身を捉える的確さというか、渋さは惚れ惚れするとしか言いようが無い。年老いた自分をどのようにフィルムに刻み付ければよいのかを熟知しているところが素晴らしいのだ。(年老いた自分自身にカメラを向けるこの映画のイーストウッドは、まるで、年老いたアラン・ドロンにカメラを向ける『ヌーヴェル・ヴァーグ』のゴダールを思わせる。)しかし、終盤、ヒラリー・スワンクが全身不随になってしまうあたりから、えっ、という違和感が誤摩化しようもなく浮上してくる。知恵も技術も持っていながら、過去の傷と年齢とによってその力量を充分に発揮できない年寄りと、知恵も技術もないが、若さと可能性だけはある人物とが出会うことで起こるサクセスストーリーという、全くありふれた定型的なお話を、こんなにも深い厚みと説得力とでもって語ることが出来るイーストウッドは素晴らしい、と、手放しで賞賛することが出来なくなってしまうような終盤なのだった。何故、最後に、安楽死というか、尊厳死のようなテーマを出してこなくてはならなかったのか。そんな「問題」が出てしまうと、それまでの全てが、前振りに過ぎないようにみえてしまうではないか。モーガン・フリーマンが片目を失明してしまったエピソードや、イーストウッドが、ガードの甘い選手にダーティーな相手との試合を組むことに消極的である事(くり返し、「自分の身を守れ」と忠告すること)、そして、ヒラリー・スワンクがかつて飼っていた足の悪い犬をその父親が捨てて(殺して)しまうエピソードなど、これらの、映画に厚みを与えるための豊かな(不透明な)細部だと思われたものたちが、ある一つの「テーマ」のための伏線として「回収」されて収斂されてしまう時、ええっ、それはないでしょうと思わずにはいられないのだった。
●終盤に違和感を感じてしまうと、そこから振り返って、そういえば、この映画ははじめから気持ちの悪いところがあった、と、感じてしまう。その気持ち悪さの原因は、この映画がモーガン・フリーマンによるナレーションこによって制御されてしまっているという事実と深く関わる。実際、この映画でイーストウッドの「決断」はほとんど全て、モーガン・フリーマンに「導かれて」行われ、イーストウッドは自らの意思を持たないようにさえみえるのだ。当初、女性ボクサーのトレーナーは引き受けないという考えを持っていたイーストウッドヒラリー・スワンクを受け入れるのも、まだガードに甘いところの残る選手にダーティーな相手との試合をさせるのを拒んでいたイーストウッドが、その試合を受け入れるのも、そして、カトリック教会に熱心に通い、あくまで尊厳死を「罪」として拒んでいたイーストウッドがそれを決断する時に背中を押すのも、皆、モーガン・フリーマンという存在であることは明らかだろう。結局、この映画のイーストウッドは、モーガン・フリーマンの言われるがままに操作されているだけではないか、と感じられてしまうのだ。ぼくは別に、安楽死尊厳死が倫理的に許せないという話をしているのではない。もし、そのような主題を導入するならば、イーストウッドはもっと悩むべきだし、もっとぎりぎりまでヒラリー・スワンクを説得すべきではないだろうか。その(様々な段取りや過程の)結果として、ぎりのぎりの選択として尊厳死が選択されるのならば納得出来るだろう。しかしこの映画では、まるでモーガン・フリーマンの「罠」にイーストウッドがまんまとハマってしまったかのように事が進んでしまうのだ。この映画のラストでイーストウッドは、いつものようにきれいに「姿を消して」しまうのだが、しかし、本当ならば姿を消すのではなく、その場に居つづけて、ヒラリー・スワンクを「殺した」という行為の責任を引き受けるべきではなかっただろうか。
●この『ミリオンダラー・ベイビー』という映画を、クリント・イーストウッドという映画作家の「作家論」的な見方でみるならば、それほど不思議はないだろう。全身が不随となったヒラリー・スワンクの姿は、身動きができない状況で、他者からの暴力を受け、自らの身体に傷を負うという役を好む、マゾヒスティックな俳優(作家)であるイーストウッドの欲望の極北のような役所であり、イーストウッドは自らがそのような役をやりたいにも関わらず、それを抑制することで俳優でありつつけられたし、映画作家でもありつづけられた。ヒラリー・スワンクは、そのようなイーストウッド的欲望を具現化したような存在であり、イーストウッドにとっては彼女を殺すことで、いわば自らの欲望を殺すというような意味があるといえる。ヒラリー・スワンクの身体は、もはや年老いて、他者からの強烈な暴力を受け止めることの出来なくなったイーストウッドの身体の代替物であり、イーストウッドはいわば、自分自身の欲望を殺しているのだ、といえる。モーガン・フリーマンによるナレーションが全体を制御している理由は、イーストウッドがいつも、例えば『ペイルライダー』や『荒野のストレンジャー』のように、映画が(自らの仕事が)終わると同時に幽霊のように消えてしまう存在であることを望むということ考えれば、モーガン・フリーマンが「この世界」に留まり続けることによって、イーストウッドが「消える」ことを際立たせるためだと納得がいく。しかし、この映画においては、そのように「作家論」的に納得するよりも、あくまで素朴に「違和感」を感じ続けることの方が重要であるように思う。この映画の終盤は、どうしたって納得出来ない、と。