高橋悠治、チェルフィッチュ

●昨日の日記で高橋悠治が入院したときの文章を引用した。例えば次のような。
《病院の夕食は五時。その後はもう、することがない。自分のベッドのまわりにカーテンを引き回し、消灯時間を待たずにしずかになる。それぞれの病気だけを相手に夜をすごすのだ。》
一度の入院の経験さえないぼくがこんなことを言ってもあまり説得力がないかも知れないけど、病気をした時に最も強く、自分の存在の孤独さというものを感じる。それは、一人暮らしだから風邪をひいても誰も看病してくれない、とか、そういうことではない。そうではなく、自分の身体に訪れた変調や苦痛は、自分一人で(自分の身体において)引き受け、それに耐え、苦痛のなかで回復を待つ間の時間をこらえるしかない、これを誰にも替わってもらったり、分け持ってもらったりは出来ない、ということだ。自分自身の苦痛において耐え、自分の身体の力によってそれを押し戻すしかなく、これを堪える力を、例えば借金の肩代わりをしてもらうようには、誰にも助けてはもらえない。(勿論、外側から治療してもらうことは出来るし、してもらわなければ困るのだが。)病気ですらないせこい例でしかないのだが、ぼくは高校二年の文化祭の打ち上げの後、生涯で最悪の二日酔いに陥ったのだが(この時、生涯で最も恥ずべき酒の席での失態をも演じていたのだが、それはともかく)、その時、自分の存在=苦痛であるような激しい身体的苦痛にひたすら耐えつつ(ただ「耐える」こと以外には何も意識できないような状態で)、自分という存在の孤立性を強く感じていた。この苦痛には「自分」が耐える以外ないのだ、と。私は私の身体において私の苦痛に耐えるしかないことは、私は私の身体において私の生を生きるしかないこと、つまり、死ぬ時はたった一人で死んでゆくしかないここと繋がる。例えば、自分のやっていることが誰にも理解されないとか、友達が少ないとか、そういう孤独は場合によっては解消されるかもしれないのだが、私の苦痛や不安や死は私が引き受けるしかないという孤独は、(誰にでも平等にあり、かつ)解消のされようがない。
これは、もっと激しい苦痛に苛まれている人などいくらでもいる、という比較の問題では解消されない。(病気と一緒にしてはいけないのだけど)チェルフィッチュの『目的地』で、妊娠をしている女性が、子供はちゃんと生まれてくるのか、というか、自分にちゃんと子供を生むことが出来るのか、という不安に苛まれている時、どのような育児の本や雑誌や掲示板にも、そのような不安は誰にでも訪れることで、あなただけではないと書かれているが、では、どうすればその不安を解消できるか、どうやってその不安をやりすごせばいいかは全く書かれていない、ということを喋る場面があった。その不安はありふれている(私だけではない)と知ることによって、その不安のただなかに「私」が入っていってそれに耐えることの孤独がなくなるわけではない。(そのような不安がやってくることを前もって覚悟することは出来るかもしれないけど。)私の身体的な苦痛を、薬や治療によって解消することは出来るが、他人と分け合ったり、引き受けてもらったりすることは出来ない。つまりその時、苦痛は解消されても孤独は解消されない。
誰でもがそれをやり過ごし、それに耐えることが出来ているという事実が、私もまた、それをやり過ごし、耐えることが出来るという保証を事前に与えてくれるわけではない。しかし、にも関わらず、結果としては、多くの場合(必ず、では決してないにしろ)、それはやり過ごし、耐えることが可能であったりもする(つまり、なんとかなる)のだ。このような、ことの肯定的な(ある意味いい加減な)側面に驚かされもするということも、忘れてはならないのだけど。
このような事柄を意識した時、昨日の日記で最後に引用した、高橋悠治の発言の意味がみえてくるように思う。再び、引用する。
カフカで面白いと思うのは、たとえば小ささということかな。自分をだんだん小さくしてゆくと、極限においてどこに行きついて、そこでどういうふうに人と出会うか。それを書くだけじゃなくて、実際そういうふうに生きていくんだよね。カフカは、最後には病気になるでしょう。水も飲めなくなって---そこまでいくと、極限状態のコミュニケーションの形が見えてきたんじゃないか。それまで、ユダヤ人が借り物であるドイツ語で何を書いてもウソにしかならないという根本問題を抱えている作家が、実際に病気になって、動けないで、声が出せないで、書くだけになってしまう。そうするとたとえば、花が活けてあって、それが水をどんどん飲んでいるということを書くわけね。その時点において頼っている言葉は、いままで書いてきた言葉とは違う意味で使われている言葉だよね。そういう状態に興味がある。》
●上述したことは、今日、テレビで以前に放送されたチェルフィッチュの『目的地』をビデオで再び観ながらぼんやりと考えていたことだ。この作品が突出している点の一つに、港北ニュータウンのような、郊外を舞台にした現代的な表象物(作品)において、若い夫婦がそこで子供を作るということを、全体としてギリギリ肯定的に捉えることが出来ていることが挙げられると思う。(そういうものは、あまりないのではないだろうか。)勿論、ただ単純に肯定の歌が歌われている(だったらたんにウソっぽいだけだろう)のでは全くなく、肯定的な部分も否定的な部分もごちゃごちゃとひっくるめてあるなか、全体としてギリギリにポジティブであり得ているようにみえる、ということなのだが。