●必要があって、ポレポレ東中野に、吉田喜重のテレビドキュメンタリーシリーズ「美の美」のボッシュ編(『幻視の画家ボッシュ』)を観に行った。はやめに東中野の駅に着いたので、駅の周辺を散歩していて(冬枯れの枝が電信柱に絡み付くようにのびている大きな柿の木とかが見られた、この木には、枝についたままで干涸びている柿の実がいくつか残って垂れ下がっていた)、開演(上映前に行われる吉田氏の講演が始まる時間)の20分ちょっと前くらいに劇場に入ったら、狭いロビーは既に人でごった返していて、もうちょっと遅かったら、下手すると入れなかったかもしれなくて、危ないところだった。吉田監督は、あの独特のイントネーション、ゆったりと落ち着いてペースの乱れることのない話し方で40分くらい話をして、それが終わって上映がはじまると、それと全く同じ語り口のナレーションが画面から流れてくるのが不思議な感じだった。吉田監督は、ステージの上には上がらず、ステージに軽く背をもたれかけるようにして立って、話していた。話の内容で興味深かったのは、吉田監督は宮川淳と同じ年齢で大学時代にとても親しかった(ほとんど一緒に生活していたと言っていい程親しかった、という言い方をしていた)のだが、一緒に美術館に行くと、吉田氏が全て観終わってから一時間くらいしてやっと、宮川氏が美術館から出て来るという具合で、美術作品を観る「時間」の感覚が全く違っていた、という話だった。
『幻視の画家ボッシュ』は、これだけを単体で「吉田喜重作品」として扱うのは、ちょっとキツいかなあ、という感じで(それはぼくがボッシュという画家をあまり好きではない、面白いとは思えない、ということのせいもあると思うけど)、観ている間じゅうで考えていたのは、絵画を映画に撮ることに関する一般的な問題(絵画に、そのショットの持続時間という「特定の時間」を与えてしまうこと、ディテールに寄ってゆくことで、「特定の視線の流れ」を与えてしまうこと、それらによって絵画の意味が変質してしまうこと、等)についてだった。ただ、ボッシュの作品は、近づいてディテールを観ながら「読み込んで」ゆくような性質の作品なので、映画として(時間化、物語化して)割合扱いやすい作品だと言えるので、この作品からだけだと、吉田監督の絵画や美術に対する姿勢の独自性のようなものは、それほど明確には掴めなかった。