吉田喜重『告白的女優論』

吉田喜重『告白的女優論』をビデオで。ぼくが吉田喜重の映画をある程度まとめて観たのは確か『嵐が丘』が公開された頃で、その時はすこしハマったのだけど、最近の吉田ブームにはほとんど関心がなかった。必要があって『美の美』のシリーズを観ることになり、しかし『美の美』だけでは掴みきれない感じがあって、他の作品も観直してみようと思っていたのだが、最近のブームでレンタルビデオ店ではいついっても吉田作品はほとんど貸し出し中で、やっと一本借りられたのが『告白的女優論』だった。
●改めて観直すと、以前に観た時とはかなり異なった印象をもった。この映画って、こんなに分かりやすく面白かったっけ、という感じ。大映ドラマ並みの大げさな演技をする俳優たちが、俗流精神分析めいた劇を演じているところを、異様なまでに凝ったフレームで切り取っていて、しかも、やたらとテンポがいい。前衛っぽい映画で俳優に大げさな演技をされると、それだけでうんざりしてしまいがちなのだが、(俗っぽいまでの)テンポのよさによって、不思議なくらい抵抗を感じない。こういう書き方はまるで「皮肉」のように響くかもしれないけどそうではない。ダイアローグ(テキスト)によってあらかじめきっちりとつくられた構成(この映画は画面を見ずにセリフだけ聞いていてもお話が分かる)、大げさな演技や大げさなセリフ回しなどは、凝りに凝ったフレームと相まって、映画から徹底的に現実的な風景(リアリズム的なもの)を排除することに貢献している。つまり実写映画がはからずも「写し込んで」しまう「現実(風景)」を徹底して排除することで、現実的な三次元の空間を出現させないようにしている、ようにぼくには見えた。この映画のフレームの一つ一つは、(陳腐な比喩だが)バラバラに砕けた鏡の破片に映った光景のようで、それを寄せ集めても一つの三次元(現実)的な空間は構成されない。女優は、三次元空間のなかの巾や厚みや重さのある身体としてあるのではなく、ただ増殖するイメージとしてある。そのために、極端なフレームや闇によって空間は潰されなければならないし、大げさな演技によって、人物(身体)は役割に還元され記号化(言語化)されなければならない。女優の隠された欲望や秘められた過去が語られても、その女優の存在に厚みや深みが加わることはなく、ただ、イメージのバリエーションが増殖してゆくばかりなのだ。(例えば、この映画の浅丘ルリ子の様々なイメージを束ねるのは、浅丘ルリ子の現実的、三次元的に存在する身体ではなくて、浅丘ルリ子という名前であり、女優という役割であるのだ。)この映画には空間もなく、そこから風が入って来る窓のようなものもなく、平板でとても息苦しいが、それを徹底させることで、異様な「何か」を出現させることに成功していると思う。吉田喜重の特徴的なフレーミングは、我々がそのなかにしか居ることが出来ない三次元的な空間の秩序、リニアな時間の秩序から浮き上がることを可能にする。(そのフレーミングは、視覚を妙な形で限定することによって空間を「潰す」だけではなく、それが人の視点=見た目では決してあり得ないことをも強調する。)そして、現実から切り離されて浮遊したイメージを、再び束ね、組み立てるのは、この映画では「言語的な秩序」であるように思えた。