gallery汲美で、「絵画深度」展(葛生裕子・沓澤貴子・佐藤梨香・堀由

日本橋のgallery汲美で、「絵画深度」展(葛生裕子・沓澤貴子・佐藤梨香・堀由樹子)。堀さんの畑を描いた絵と、沓澤さんのピンクの絵が良かった。良かった、ということは、面白かった、ということで、絵画が「絵画として」質が高いということと、面白い、ということとは必ずしも重ならない。例えば掘さんの絵は、畑を描いたやつ(タイトル忘れた)ではない他の2点は、正直よく解らなくて、堀さんはどこへ行こうとしているのだろうか、と考え込んだりもするのだが、そういう(ぼくにとっては)よく分からないところまで含めて掘さんの絵は面白いのだと思う。沓澤さんの絵は、堀さんに比べて分かりやすくて(つまり「絵画として」分かりやすくて)、分かりやすいということはおそらく、やろうとしていることがすんなり納得できるということで、でもそういうものは、テンションの高さとか、絶妙のバランスとか、そういう「質」の高さによって支えられていることで「面白い」のであって、ちょっとでもそれが崩れるとつまらなくなる危険をはらんでいるようにも思う。「こういう傾向」という意味では割とありふれていて(言い直せば「傾向として」分かりやすいのだが、「傾向」として「面白い」という訳ではない、とも言える)、しかし「傾向」とかなんとかに還元されないものが「質」というもので、沓澤さんのピンクの絵からは、初期のアンソールの風景画の空の部分から感じられるような、言葉にすることが殆ど不可能であるような、空気のなかで複雑に屈折した光の調子のようなもの(「質」)があるように思った。(ここで言う、傾向とか何とかに還元されないものとしての「質」と、もうちょっと前に書いた、絵画として「質」が高いからと言って面白いというわけではない、という時の「質」とでは、同じ「質」という言葉でも意味がちがってしまっている。前者は、その作品がその作品であること(の実質)を支えている何か、という意味での「質」であり、これこそがつまり「面白さ」で、後者は、ある程度共有されたものとしての「技術の高さ」というような意味での「質」だろう。つまり後者の質は、前者の質にまで高められなければ、あるいは変質されなければ「面白く」はないということだろう。)
●竹橋の国立近代美術館でやっている須田国太郎・展の図録を友人に見せてもらったら、なんか凄く良さそうな感じで、是非観たいと思ったのだけど、5日の日曜日までで終わってしまって、だとすると、観に出掛けられるとしたら最終日しかなくて、そのためにはそれまでに済ませておかなければいけないことがいくつかあるので、行けるかどうか微妙なのだった。
●「絵画深度」展は、日本橋のgallery汲美(03-3231-3882)で10日の金曜日まで。