竹橋の国立近代美術館で須田国太郎・展(2)

●回顧展っていうのは怖い形式でもあると、昨日自分で書いたことへの反省も含めて思う。一人の画家の、初期から晩年までに至る作品が一堂に展示されていると、ついついそこに、ある連続性というか、つまり「物語」みたいなものを読み込んでしまい、まるで、一人の画家の一生かかった試行錯誤の(その都度、その都度の)くり返しを、一望のもとに眺め、位置づけられるかのように思ってしまう。そこで自分が勝手にでっちあげたコンテクストみたいなものにそって、個々の作品を見ることの着地点を(前もって)見出してしまいがちだ。例えば、回顧展という連続性のなかではなく、常設展示のなかの一点としてあったならば、もっとその一点を丁寧に、その作品そのものに沿って観ることができたのかもしれない。そのような意味で、ぼくの昨日の絵の見方はちょっと雑だったかもしれない。しかしそれは、ぼくだけが悪いということではない。例えばマチスだったら、展覧会をつくる側がどのような意図でそれを組み立て、そのコンセプトに沿った展示(「プロセスとバリエーション」みたいな)を行おうと、観客がそのコンセプトを前もって吹き込まれていようと、そんなコンセプトやコンテクストなんかより、一点、一点の作品の粒立ちの方が、絶対に強く際立って見えて来るはずなのだ。それこそが作品の「質」というものだと思う。