『未来少年コナン』

●『未来少年コナン』の1話から10話までをDVDで観た。再放送などで飛び飛びには何度も観ているけど、はじめから続けて観るのは、小学生の頃観た、最初の放送のとき以来だろう。これは宮崎駿の演出家としての最初の仕事であり、その後のすべてが既にここにあるような、驚くべき作品だと思う(ぼくは宮崎氏の最もよい作品だと思う)。ちょっと調べてみたら、「コナン」は宮崎氏の三十代終わり頃の仕事で、つまり、今のぼくと同年代の時の仕事なのだった。話は飛ぶが、おとといの日記で書いた、マティスが、フォーブ時代から、その後の、「実験的な時代」とされる時代(マティスが、ほかの誰とも違うマティスにしかできない独自のものを獲得した十年)へと移行する、ある飛躍(ひとつの切断)が起きた、『豪奢』の描かれた1907年は、マティスが37歳から38歳という年であり、これもまた、今のぼくとほぼ同年代であるのだった。またまた話は飛ぶが、『絵画の準備を』のあとがきで岡崎乾二郎は、何のあてもなく、(この本としてまとめられた)いつ果てるともない対話を松浦氏とつづけていくことは、とても刺激的で貴重なことではあったが、しかし《対話をつづけているうちに松浦も僕も四十代に入り、自分の仕事に集中しなければ、もう間に合わないと考えるようになった》と書いている。つまりは、ぼくも、そのような年代になったということなのだった。
●余談だが、大塚康生の『アニメーション縦横無尽』には、『未来少年コナン』の第1話では作画監督である大塚氏がラナを描いたのだが、「かわいく」描かなかったので、大塚氏はその後二度と宮崎氏にラナを描かせてもらえなかった、というエピソードが載っていた。(大塚氏は、少女を描くのは、表情も動きも乏しいのであまり面白くないと言い、一方、宮崎氏は、『ルパン三世』に関わっていたときも、峰不二子は大嫌いだ、と言っていたそうだ。)確かに、つづけて観ると、第1話のラナはほかの回とは違って、コナンと同等なくらいに表情が多彩で、つまり常にやわらかく表情が変化しつづけていて、そこには「間の抜けた」感じの顔もけっこうある。それ以降のラナは、描線からして堅い感じで、あまり表情に変化がなくなっている。この作品では、ラナは「揺るぎない意思」が形象化されたようなキャラクターであるし(だから間の抜けた顔をしてはマズいのだろう)、なにより、周囲のキャラクターがそろいもそろって(きわめて柔軟に)「よく動く」ので、そのなかでのラナの「堅さ」は画面の多様性(画面が単調にならないため)からいっても必然性のあることだと納得できる。ラナの服の真っ赤な色も、(全体としてパステルカラー調の押さえた色彩であるこの作品では)「動き」よりもむしろ、そこにそれ(意思)が「存在すること」を常に示す、というような色であるのだろう。