世田谷文学館に、小島信夫と保坂和志の話を聞きに行った

世田谷文学館に、小島信夫保坂和志の話を聞きに行った。世田谷文学館のロビーで、待ち合わせの友人を待つ間、ロビーから見える池で泳ぐ、大きな鯉を眺めていた。池にいる、フナとか鯉とかの動きに、ぼくはことさら釘付けになってしまう。水槽のなかの金魚や熱帯魚だとか、あるいは、水族館にいるもっと大きな魚などからはあまり感じられない、あさましいほどのなまなましさを感じるのだった。水の中にいる、引き締まっているわけでも、ぶよぶよっとしているわけでもない、中途半端な充実度の肉の塊が、優雅というのとは違う緩慢さで、うごめいている。
●今日は、このトークのために補聴器をつけているので、自分の声に違和感がある、と言い、みなさんにはどう聞こえているのか、と言いかけて、ああ、そうか、と言いよどむ小島氏は、おそらくこの時、(補聴器を通して)自分に聞こえている自分の声が、そのまま観客にも聞こえているかのような軽い混乱を起こしていたのだと思われる。そして、このような混乱の感触に、ぼくはとても「小島信夫」的なものを感じるのだった。トークの最初で保坂氏が、小島氏の『寓話』のなかで森敦が言う、話は人の耳をひとつ挟むとそれだけ厚みを増す、という言葉を紹介していたけど、ある「話」が、人の耳を一つ(一つの身体、一つの脳)経ることによる屈折が、その話に厚みをもたせるだけではなく、そこに挟まれた一人の人物の感触をも表現するように思われる。小島氏は、小説のなかに実在する人物を登場させ、あたかもその人物が実際に言いそうなこと(その人物が言うことよりも、その人物らしいこと)を言わせたり、手紙に書かせたりする(そしておそらく、そのなかには実際にその人物が言ったことも含まれているのだろう)ことによって、読者を混乱させる、という話をしていて、しかし、自分で書いていながら、自分でも混乱してきて、自分で書いた(モデルとなった人物に言わせた)ことについて、その人物に話を聞きたいと思って、電話をかけそうになったりもしてしまう、とも話す。(この話は、『残光』のなかにも出てくるけど。)結局、自分で仕掛けた罠に、自分ではまってしまうのだ、と。自分で書いたもののなかに、自分が迷い込んでしまい、その迷い込んだなかでこそ、言葉が書き継がれてゆく。その迷い込んだなかでは、自分の今までの実人生での出来事や出会った人たちも、自分が過去に書いてきた小説やその登場人物たちも、自分が読んできた本やその登場人物たちも、等価なものとしてたちあらわれ、混じり合うのだろう。これは方法の問題とかではなくて、この「迷い」のなかでの迷い方、迷いのなかを進むというか、彷徨するその仕方こそが、小島信夫の小説であり、そこに小島信夫という一つの身体の有り様(身体を構成する多数の諸装置の諸関係)が表現されている、ということなのだと思う。そしてその小説は、それを読む読者それぞれに、小島信夫的な迷いのなかに誘いつつも、小島信夫とはまた違ったそれぞれの迷い方をするのを許し、誘いもする。
●問いがあって答えがあり、謎のヴェールの向こうに真実があるのではなく、問いを問いとして組み立て、組み立て直すことこそが答えであり、謎が響かせるその響きを聞き、いくつもの謎が響き合うそのゆらめきの強度のなかにいることにこそ真実がある、というのはおそらくその通りなのだと思うのだが、しかしそれでも人は、なにかしらの意味や回答を求めてしまうという重力には逆らいがたいものがあり、ひとつの決済として意味を確定することで、再び世界との新鮮な関係をつくり直すことが出来るというのも事実で、決済とは、流れ行く時間をある時点で切り取った断面にすぎないとしても、その断面(というフィクション)をこそ人が生きるリズムを刻むために必要としているとするのならば、(日常生活にちいさなリズムを刻むものとしての必要とされる)小説やお話に、謎とその解決があり、伏線とその回収があり、見事な結末があることは、それはそれで重要な意味があることなのかも知れないと、小島信夫の話を聞いていて、逆に、思ったりもするのだった。