なびす画廊で、杉浦大和・展

●銀座のなびす画廊で、杉浦大和・展。以前の、抑制された画面から、蕾が開花したみたいに、色彩が殻を破って内側から溢れ出したような感じで、その、色彩の新鮮さに惹かれた。その色彩は、赤,オレンジ、黄色、青、緑、茶色など多彩で、ちょっと酔ってしまいそうなのにも関わらず、ある種の抑制の感覚が働いていて、春になって植物が萌えてくるような淫らな過剰さを感じさせつつも、画面として破綻してしまう手前で、ぎりぎりの画家の制御が働いているのが、同時に感じられる。色彩というもののもつ過剰さに貫かれながらも、それに淫し切ってしまうことのない禁欲的な意思が感じられる。杉浦氏の絵を観ていると、色彩というものの不思議を改めて感じる。例えば、その赤のもつ、膨らみのある表情。画面上の赤が占める面積の割合は、他の色に比べて相対的に多いことはあっても、「赤い絵」と言える程ではない。しかし、画面の赤い部分に注目すると、その赤が(と言うか、赤の赤さが)画面全体にひろがってゆき、青や緑の部分までが、赤の赤さの一部として、それに含まれるように感じられてくる。画面のなかで目を泳がせていて、ほんの小さな赤い色の筆触に目がひっかかると、それが他の部分の赤と響きだし、赤い色のもつ触感が画面を満たし、それが画面の外にまで広がり出るようにさえ思えてくる。そして次に、黄色い部分に目が留ると、今度は、黄色こそが画面を支配しているかのように感じられる。それに対し、青や緑や茶色は、いつも画面のなかの一部分としてあり(つまり画面全体にまで広がることはなく)、ある時は赤の赤さ、黄色の黄色さのひろがりのなかに含まれ、またある時は、それに抗する異物のように存在して、自らの色の感覚(触覚)をささやかに主張する。これだけ多彩な色彩を画面に投入しながら、カクテル光線のような混沌に陥らず、それぞれの色彩のもつそれぞれの特質や表情が、それ自身として自己主張することが尊重される画面が構築されているのは凄いことだと思う。そしてこの構築は決して静態的なものではなく、動的、あるいは多層的であり、画面のなかをさまよう目が、どの色に注目するか、どの筆触、どの形態に目が留るかによって、その様相を変化させる。
ただ、気になったのは、画面のサイズと、筆触の単位のことだった。このような画面を実現するのに、本当にこのサイズが最も適当なのだろうか。いや、サイズそのものが問題ではなくて、サイズが気になってしまうということは、フレーム全体と、そこに置かれる筆触の細さ(太さ)との関係が、いまひとつピタッとは決まっていないからなのではないかと思う。小さな画面に、割合と細い筆で置かれた絵の具の単位が、時に細すぎ(細か過ぎ)、時に太すぎ(粗過ぎ)るように思えて、細い筆の単位のボソボソ感が、その色彩の感触に目が浸ることを邪魔すると言うか、色彩の感触に目が浸ろうとする時に、どうしても引っかかってしまうような抵抗になってしまう感じがある。色彩そのものの新鮮さや、画面のなかでの色彩の配置にはらわれる神経に比べ、筆触に対する神経というか、タッチの精度や正確さに、やや欠けるような感じがしたのだった。
杉浦大和・展は、銀座のなびす画廊で、4月8日(土)まで。