塩田明彦『カナリア』

塩田明彦カナリア』をDVDで観た。この映画の塩田監督に社会的な事件に対する関心があるとは思えない。その関心はあくまで、少年や少女の(決して社会化されない、それ以前にあるものとしての)生々しい「身体」を借ることでメルヘンを成立させることであり、そのメルヘンによってある種の純粋化された情動をたちあげることなのだと思う。(このこと自体は、映画に限らず、文学などにもよくある、きわめてオーソドックスな作品のあり方だと思う。)しかし、だとしたら、あからさまに象徴的な意味を持つ、誰でもが知っている歴史的な大事件を題材とすることが適当だとは思えない。例えば、アンゲロプロスの『霧のなかの風景』が、実際にあった事件をもとにしているとしても、それは三面記事になるような種類の事件であり、だからこそメルヘンが成り立つ。オウム事件のような、大きな、しかもまだ生々しさの残る事件を、たんにメルヘンの素材としてだけ利用するというのは、フィクションと現実との距離の取り方に関する配慮に欠けているとしか思えない。最初の方を観ているときは、現実にはあまり居そうにない「野生の少年」を野に放つための設定上の方便としてだけ、オウムが使われているのかと思って(すぐに少女の同行者が現れるので、この二人のひたすらに痛々しい直進ばかりが描かれるのかと思って)、それならぎりぎりセーフなのかなあ、とも思ったのだが、後に、回想として教団内の描写が細かく出てくると、こんなに都合の良いところだけ「現実」から借りてくるのは、単純に映画の敗北というか、映画=フィクションの放棄としか思えなくなってくる。(ネタバレになるけど、例えば、現在でもオウムの逃亡犯が死んだというニュースは聞かないのに、フィクションの都合で簡単に自殺させてしまったりするのは、現実の事件に頼り切ってフィクションをつくっているのに、そんなところだけフィクションの都合にしてしまっていて、納得しがたい。)ぼくは、この映画がオウム事件と真剣に向き合っていないことを非難したいのではない。そうではなく、オウム事件に安易にもたれ掛かってしまっていることが納得出来ないのだ。この映画と同等の説得力をもつものを、オウム事件のような社会的な(現実的な)大事件などに頼らずに成立させられなければ、フィクションは、映画は、作品は、はじめから負けを認めているということにしかならないのではないか。(そのツケとして、映画は終盤、オウムの方に引っ張られすぎてもたついてくる。へんなお説教がはいったりするし、西島秀俊水橋研二が車のなかで会話するシーンなど、ひたすら少年と少女を追うべきこの映画には本来必要ないはずなのに、後の自殺の伏線として入れざるを得なくなってしまっている。「私はすべてを許す者だ」とかいう少年の台詞も取って付けたような感じだし。)
繰り返すが、この映画ははじめから徹底してメルヘンであり、メルヘンであることによって、少年と少女の身体や情動を純粋化して抽出し得るというようなものだ。ただただ前へと進もうとする運動と、それを突き動かす純化された情動の痛々しさが画面からたちあがってくる。だからこの映画でリアルなのは少年と少女の身体のみであり(そしてそれは現実=社会以前のリアルさといったようなもので)、あとは全てお話であり、背景であり、つくりものであろう。展開はあまりに都合が良すぎるし、カメラは常に人物を追っていて、森、田んぼのあぜ道、草原、霧のなか、そして下町など、この映画のめまぐるしく移動する風景は皆、実在する特定の場所を示すものというよりも、その設定を示す背景に過ぎないように見える。そして、そのようなあり方をする映画は、ヌーヴェルヴァーグ以降(あるいはブレッソン以降?、あるいはベルイマン以降?)、ヨーロッパ映画ではオーソドックスだとさえ言えるだろう。そして、そのような作品として、決して悪い作品ではないと思うし、ぼくは正直言うとかなり好きだったりする。しかし、それ「以前」のところで、どうしても引っかかってしまうし、納得出来ない。