大雑把であることは、けっこう重要なことのように思える

●大雑把であることは、けっこう重要なことのように思える。大雑把にものを捉えることの厳密さ、大雑把に捉えることではじめて可能になる厳密さ、というようなことがある。例えば、ロバート・ライマンみたいに、自分の作品(絵画)の展示のあり方を厳密に規定して、床からの高さや照明の当て方などまでを細かく指定し、それらの条件がきちんと満たされなければ、作品が成立しない、というのは、とても苦しいし、弱いように感じる。もちろん、良い空間、良い状況で展示されるのに越したことはないけど、極端な話、作品が無造作に、街中に放置されていても、ゴミ捨て場に捨てられていたとしても、その作品がちゃんと展示されているのと基本的にはかわらない何かを提示するものであって欲しい、とぼくは自分の作品に対して思っている。ちゃんと展示されている方がそれが見えやすく、街中に放置されていると見えづらい、という「効果」の違いはあっても、作品は持ち運び可能で、どこにあっても、その最も基本的な表現性は維持されるものであってほしい。(そのような作品を実際に作ることが出来ているかは別として。)
絵画作品の場合、展示される壁のと関係、照明との関係などで、作品の印象や、色の微妙な見え方などがかわってしまうのは当然ののことで、その部分に過剰にこだわり始めると、作品は作品であるより、観客に与える効果の演出のようなものになってしまう。そしてその部分を追求しはじめると、作品を受け取る観客一人一人の、感覚受容器としての身体の違いというところに、結局は行き着いてしまうと思う。それは、文化的な意味での感性や教養の違いということだけではなく、視力は一人一人違うし、眼球のレンズの濁りや歪みなども、人によって違うだろう。黒い瞳の人と、青い瞳の人とでは、そこを通過する光の質も微妙に異なるだろう。人それぞれ、目も違えば耳も違う。(同じ人でも、体調がことなれば、見え方もことなるだろうし。)オーディオマニアがスピーカーやアンプによる音質の違いにこだわりだすと蟻地獄にはまってしまうのと同じように、視覚的効果のようなものに過剰にこだわりだすと、追求すべき方向を見誤る。もともと、人はそれぞれ異なる身体によって世界に対しているのであり、それは、おなじディスクを、異なる性能の再生機で再生しているようなものだし、同じデータをことなるモニターで表示しているようなもので、そこにズレが生じるのは当然のことなのだ。
だから、そこはもっとざっくりと捉える必要がある。表現の厳密さ、表現の精度や密度というのは、微妙な色合いの効果とか、そういう細かいところよりも大雑把なところにあり、しかし同時に、大雑把に捉えられる感覚の厳密さというのも絶対にある。もとより、人間の身体は、意識では決して捉えきれない程の、無数の諸機械の連動、恊働によって成り立っているのだから、意識的には、それをひとまとめに大雑把に捉えるしか仕方がない。しかし、その大雑把な捉え方に、大雑把であることの厳密さがなければ、高度な身体的技能は成り立たない。厳密であること、繊細であることは、基本的には大づかみであることのなかにあり、それは細かいということとは違う。