●電車に乗っていて、あいている窓から吹き込んでくる風を心地よいと感じることの出来る時期は、一年のなかでもそんなに長くはない。本を読んでいて、風が吹き込んでくるのにふと気づき、あんまり気持ちいいので、本を閉じて、なにもしないで、ただその気持ちよさだけを感じていることにした。まばらに空席があるという程度の車内。ぼくの向かいの座席で眠っている、おそらくまだ二十代だと思われる小太りでスーツ姿の男性の、既に薄くなりかけている頭部の張りのない前髪がそよそよと風になびいている寝顔が、なんとも気持ち良さそうに見える。風だけでなく、眩しく光りも射してくる窓から見える空は鈍く、はっきりしない色をしている。風景が流れてゆく。吹いてくる風が気持ちよいと感じることの出来る陽気がある、という以上に重要なことなど、少なくとも今は考えられない。