●例えば、一冊の本を千何百円か出して買うことは、それを買う人の消費的欲望を満足させるだけではなく、それを買った人による、その本を書いた著者、その本を作った編集者、その本を出した出版社に対する、社会的な支持(評価)の表明という意味をもつ。ある映画を、千数百円出して映画館へ観に行くということは、その映画をつくったプロデューサーや監督やスタッフやキャスト、そしてそれを配給し上映する会社や映画館に対する、社会的な支持(評価)の表現という意味をもつ。(あるいはそれだけでなく、出版や映画という「文化」を維持することにに対する責任の行使という意味さえももつだろう。)それは、選挙へ行って一票を投ずるなんていうことよりも(あるいは、その作品に関する「批評」を書くなんてことようも)ずっと大きな、社会(経済的)的な発言としての意味をもち、影響力をもつと言えるだろう。そして、複製技術時代の作品の「単価」の低下は、誰でもがその作品(文化)に対する「社会的な評価」のための発言(行為)を行使する機会を得る(そして責任を負う)という効果をもつことになる。中学生にとって、限られたお小遣いのなかで二千円以上するCDを買うことは決して楽なことではないが、しかしそれは、中学生でも、音楽作品に対する何らかの評価を社会的に発言することが出来るということでもある。
それに対し、(同時代の)美術や絵画については、それが基本的に一点ものであり、必然的に単価を高くせざるを得ないという点において、その社会的な発言をする権利を持てる者を、著しく制限せざるを得ない運命にある。ある一人の人物が、あるギャラリーである作品を観て、はげしく心を動かされたとしても、そのことだけでは、その作品をつくった作家や、その作家の展覧会を開いたギャラリーに対しては、何の社会的効果(つまり経済的効果)も及ばさない。(念のために付け加えるが、ぼくはそのことに何の意味もないと言っているわけでは決してない。芸術の意味は、社会的な次元には決して還元されず、それ以前の個々の場所にしかない、と思っている。この点は絶対に重要だ。)いわゆる「アート界」で、何らかの発言力(政治力)をもっているわけではない一般的な人が、その作品や作家や画廊に対する支持や評価を社会的に表現しようとするならば(あくまで「社会的に」という次元でのことだが)、その作品を「買う」という行動にでるしかない。しかし、基本的に一点物である美術作品の単価はきわめて高価であり、中学生でも手が出せる、というものとはとても言えない。実際、ぼくのような無名でほとんど評価のないような画家の作品でも、タブローなら一点数十万円という値段がつく。それは買う側(評価する側)に立って考えれば、「そんな高けえもん買えるか」ということになるのも当然なのだ。(「売る」側からみれば、決して暴利を貪っているわけではなく、それでもあまり利益は出ず、とても苦しいという事情があるのだけど。)しかも、それは世の中に一点しかないのであり、一冊の(物としての)本を汚してしまったり、破損してしまってもそのかわり(データ)はあるが、一点の絵画を汚してしまったら、もうそのかわりはない、という妙なプレッシャーまで背負わされることになる。だから、美術の世界で社会的な発言権をもつことが出来るのは、限られた少数の「お金持ち」ということになってしまう。それは、お金をもった(ごく一部の)コレクターが、(他の一般的な観者に対して)一方的に強い発言力をもつということである。(千数百円を出す余裕さえある人なら誰でも、一冊買う=一票を投じることが出来る、というのと同じわけにはいかない。本屋では、一冊数百円の文庫本を買う人も立派なお客だが、画廊で一冊千円程度のカタログを買ってもお客とはみなされない。カタログか何部売れても、それが画廊の経営の助けとはならず、つまり、その作家の「次の」展覧会には繋がらない。)ある作家の作品を好む人が一定の数いたとしても、その作家の作品を買う人が多くなければ(あるいは、一定の「地位」にある人がその作家を評価しなければ)、その作家への評価は無いのも同然となる。(これは逆もありえて、誰も本当は良いなどとはまるで思っていないのに、ほんの数人のお金や地位がある人が評価すれば、戦略として売り出せば、それで作家として「認知」されたことになってしまう。)このことが美術の世界を、きわめて狭く閉ざされ、偏ったものにしてしまっている。極端なことを言えば、地位かお金を持っていなければ(あるいは自ら画廊を経営するとか作家や批評家になるとかしなければ)、美術の世界(社会)では発言する権利(何らかの働きかけをする権利)を与えられない、という、なんとも鬱陶しい状況に繋がっている。
勿論、市場原理が導入され、大衆化されれば美術の世界も「健全」になるなどという(まるで小泉首相のような)馬鹿げて楽天的なことを言っているのではないし(現在のアメリカのアート界の悲惨さをみれば、そのことは一目瞭然だろう)、また逆に、このような「狭さ」によってかろうじて守られている重要な「何か」があることも否定できない。(例えば、目利きとしての見巧者の存在は、時間の蓄積としての文化の厚みを保証しているだろう。)さらに、ぼくは最終的に社会的な評価などまったく信用していないし、重要なのはそんなことではない、と考えている。だがそれにしてもこのような現在の美術の状況は鬱陶しく、かつ、とてもいびつである(つまり「力(あるいはお金)」が一部に集中してしまって、分散されづらい)ことにかわりはない。そして、こんなことはおそらく美術に関わっている誰でもが思っていることなのだが、では具体的にどうすればよいのかは、誰にもわかっていないことなのだった。