『エスター・カーン』(アルノー・デプレシャン)

●昨日試写で観た『キングス&クイーン』(アルノー・デプレシャン)がとても面白かったので、久々に『エスター・カーン』をDVDで観直してみた。改めて観て、特に前半、エスターが女優になって家を出る頃まで部分が充実しているように思えた。こちらは、一人の人物(一つの身体)が映画の中心にあるので、映画は割合とはっきりとした輪郭線をもって直線的にすすむかのように見える。しかしデプレシャンの映画においては、自然な身体などあり得ず、それは既に一度切り刻まれた上で、縫い合わされたものなのだ。『キングス&クイーン』の試写でもらった資料をパラパラと眺めていると、主演の一人、マチュー・アマルリックのインタビューに次のような一節があった。《(『キングス&クイーン』は)アルノーの作品では、最もカット数の多い作品となった。彼は最初のテイクに17番目のテイクをくっつけたりしている。僕の声の調子が突然変わって、重くなったり、鋭くなったりするのはそのためだ。》これはまさに、『キングス&クイーン』という映画全体の調子をもあらわしているような発言だが、十九世紀のイギリスを舞台にし、一人の女性=女優の成長物語という、一見すると古典的な枠組みをもっているかのようにみえる『エスター・カーン』のエスター(サマー・フェニックス)の身体もまた、このようにしてつくられているはずなのだ。しかし、『エスター・カーン』が、一応女優の成長の話だと要約出来るような外枠をもっているのに対し、『キングス&クイーン』のマチュー・アマルリックが演じる人物は、全くつかみどころがない。最初に登場した時の、精神病院に強制的に収監されるエキセントリックな人物と、最後に出てくる、子供に養子縁組を断った理由を諭している落ち着いた人物とが、同一人物だとはなかなか信じがたい。(いや、観客は、同じ俳優であれば簡単に同一人物であると「信じて」しまうわけだが、その人物のキャラクターが掴めない。)この人物は、新たなシーンが一つ付け加えられるたびに、新たな側面(性格)が付け加えられると言ってよいほど、常に変化していて、それらのツギハギとしてある。(それどころか、インタビューによれば、一つのシーンのなかでも、複数のテイクのツギハギであることになる。まあ、もともと映画は、複数のショット、複数のシーンのツギハギで出来ているのだ、とも言えるのだけど。)だが、このツギハギの感じは『エスター・カーン』にもあって、例えば、家を出て劇場近くに下宿することになったエスターと父との別れのシーンとも言える川縁のシーンで、ラズロ・サボと会話するサマー・フェニックスは、やけに落ち着きがなくみえるのだが、それは、細かくカットが割られたこのシーンで、彼女はカットが変わるたびに、別の方向を向いていたり、違った表情をしていたりするからなのだ。ただ、『エスター・カーン』ではそのツギハギ感が、これから独立して一人でやってゆく不安だったり、エスターという女性の性格だったりを表象しているようにも読むことが出来るようにはなっている。『エスター・カーン』を貫くようにみえる一本の太い線も、実は途切れ途切れの無数の細い線の、断層を挟んだ重なりによって出来ている。
●切れ切れのイメージを、ツギハギ状ではあっても(ある程度の連続性をもって)繋ぎ合わせることを可能にしているのは、やはりその役を演じている俳優の(現実上での)身体(のイメージ)の同一性なのではないだろうか。デプレシャンが、同じ俳優たちとずっと長く仕事をしつづけていることも、これと関係があるように思う。つまり、デプレシャンの、分析的なな思考を様々に組み合わせる果敢な形式=内容上の探求は、いつも一緒に仕事をしている俳優たちの、見かけ上の、あるいはその性格まで含めた、安定した同一性への信頼を基盤(定点)とすることで成立するのではないだろうか。『キングス&クイーン』で男女二人の主人公(の身体の自然な流れ)を、大胆に切り刻んだ上で再び自由に構成し直すことが出来るのは、それを演じているのが古くから一緒に仕事をしているエマニュエル・ドゥヴォスマチュー・アマルリックだからなのではないだろうか。現実的な身体の同一性と連続性とを根拠としてもつからこそ、それを切り裂き、ツギハギして、別のものへと作り替えることが出来るのではないだろうか。